【会津ゆかりの地シリーズ⑧】長岡市~奥羽越列藩同盟のつよいきずな!

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毎年9月に会津若松市で三日間に渡って開催される会津まつり。
このメインイベントである会津藩公行列には、ゆかりの地からのゲスト参加がとても多いんです!

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それぞれの都市が、
・どこにあるのか?
・会津とどんなゆかりがあるのか?
・一体どんなまちなのか??(名物や、歴史、伝統行事など)
全くわからなかったので、調べてみました!

こちらの記事で紹介するのは、新潟県長岡市(ながおかし)!

会津まつりには、2017年にプレ戊辰150周年として、戊辰戦争のご縁で初めて参加してくださいました。

そんな長岡市について、くわしく見ていきましょう!

長岡市はどこにあるの?

長岡市の場所は、こちら。

新潟県の中越(ちゅうえつ)地方にある都市です。
アゲハチョウのような芸術的な形ですね!!

右の羽の下のほう、よく見ると少し切れ目があります。
市町村合併により、川口地区が飛び地として離れているんだとか。
そんなこともあるのですね~。

では、そんな長岡市から会津若松までのアクセスを見てみましょう。

こちらです!

では、北陸自動車道と磐越自動車利用で約2時間半の距離です!!

峠越えのルートもありますね。
パッと見近いように見えますが、距離はほとんど同じ。
ということは、きっとかなりクネクネ道ですね。

電車の場合は、
長岡~(信越本線55分)~新津~(磐越西線2時間50分)~会津若松と、ざっと3時間

新潟と言っても、距離は新潟市までの約1.5倍。
けっこう遠いのです。

長岡市のみなさん、遠いところから会津へお越しいただき、ありがとうございます^^

長岡市と会津のゆかりは?

奥羽越列藩同盟

会津ゆかりの地ネットワークによると、長岡市は、
【ゆかりの歴史】戊辰戦争・奥羽越列藩同盟とあります。

長岡市は、戊辰戦争当時長岡藩があった場所です。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)というのは、戊辰戦争で朝敵(ちょうてき)とされた会津藩・庄内(しょうない)藩を守るために、仙台藩や米沢藩が中心となって結んだ同盟。

ウィキペディアによると

 
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、薩長中心の新政府の圧力に対抗するために結成された。

 

とあります。
盟主(めいしゅ)が北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう・当時の天皇=孝明天皇の義理の弟)とありますが、会津では、盟主は仙台藩とする説が一般的です。

奥羽越列藩同盟には、東北・新潟の各藩が加盟しました。
しかし、戦いが不利になり、やむをえず脱退する藩がほとんどでした。

そんな中、長岡藩は、負けるまで徹底抗戦した数少ない藩です。

(ほんとうにさいごのさいごまで戦ったのは、長岡藩くらいなんだそう。)

長岡藩のお城は長岡城


▲『長岡城下年中行事図絵 年始登城』画像引用:ウィキペディア

今はなんと、JR長岡駅になっています。


▲上の絵と同じ構図で撮影された長岡駅 画像引用:ウィキペディア

もともとお城があった位置から4kmほどのところに、長岡城を復元した、『長岡市郷土史料館』があります。

戊辰戦争当時の藩主は、第13代:牧野 忠毅(まきの ただかつ)でした。


▲牧野忠毅 画像引用:ウィキペディア

河井継之助

長岡藩・幕末と言えば、藩主より有名なのが、家老:河井継之助(かわいつぎのすけ・つぐのすけ)!


▲河井継之助 画像引用:ウィキペディア 

歴史のちしきゼロのわたしは、もちろん存在すら知りませんでしたが、この方、超有名人です!!

長岡には、越後長岡 河井継之助記念館なる記念館があるほど。

まずは、こちらの紙芝居「幕末の風雲児 河井継之助」をどうぞ。

 
河井継之助は、北越戊辰戦争で指揮をとりました。

じつはこの戦争は、「武装中立」をつらぬきたかった河井継之助にとっては、不本意なものでした。
新政府軍へ、談判なども行いましたが、平和的解決はかなわず。

いざ戦いになると、一度新政府軍にうばわれた長岡城を、奇襲によって奪還するなど、その手腕を発揮。
しかし、二度目に長岡城をうばわれた際、足を銃で撃たれてしまいます。

その後、会津若松に向かう途中、福島県奥会津の塩沢村で42才の生涯を終えることになりました。


写真引用:福島民報「南会津の戊辰に光 記念事業で誘客(2018/01/21)」  

この塩沢村があった福島県只見町(ただみまち)にも、河井継之助記念館があります。

河井継之助が亡くなった部屋が移設され、「河井継之助終えんの間」として再現されて展示されています。


写真引用:おいでよ!南会津。

長岡城と、塩沢村(河井継之助が息をひきとった地)の位置関係はこちら。

この峠道(どのルートを通ったかはしらべていません)を、板に乗せられて運ばれたという河井継之助。

この時に読んだ「八十里(はちじゅうり) こし抜け武士の 越す峠」という一句が有名です。

”こし抜け”は、じぶんを腰抜けと自嘲する意味と、越後を越すという意味をかけていたそう。

足に受けた銃弾のせいで、命まで失ってしまうことになった継之助。
身動きが取れない自分に、そうとう不甲斐ない思いをしたのではないでしょうか。

河井継之助の活躍については、司馬遼太郎の峠(新潮文庫)でくわしく語られています。

長岡市と言えば?

長岡まつり花火大会

長岡と言えば、なんといっても越後三大花火のひとつ、長岡花火大会が有名です。

ナイアガラ超大型スターマインや、三尺玉の打ち上げなど、ど迫力の日本有数の花火大会です。


画像引用:長岡花火ホームページ

長岡まつりは毎年8月1日~3日に行われます。

これは、第二次世界大戦中、昭和20年8月1日に行われたB29による空襲に由来します。
翌年おこなわれ、市民を復興へと導いた『長岡復興祭』が前身です。

 
空襲で亡くなられた方々への慰霊の念や、
長岡再興に尽力した先人への感謝、
また恒久平和への願いを、私たちはいつまでも、
この長岡まつりで伝えてまいります。

 
引用:長岡花火ホームページ

米百俵まつり

長岡には、『米百俵まつり』というおまつりがあります。

『米百俵』または、『米百俵の精神』という言葉をご存知でしょうか?

戊辰戦争(北越戦争)に敗れ、7万4千石から2万4千石に減らされた長岡藩。
財政がきびしくなり、長岡藩士たちは、その日食べるものにも困るほどになりました。

その状況を見かねた、おなじ新潟県にある三根山(みねやま)藩から、米百俵(ひゃっぴょう)の支援を受けたそうです。
これで助かった!と喜ぶ藩士たちをよそに、当時の大参事(だいさんじ・今で言う副知事)の小林虎三郎は、その米を配らず、お金にかえてしまいます。


▲小林虎三郎 画像引用:ウィキペディア

 
この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……

 
▲山本有三の戯曲「米百俵」。引用:長岡市ホームページ 

この、人づくりはまちづくりの精神を『米百俵の精神』と呼んでいます。

米百俵まつりでは、戊辰戦争当時の偉人に扮した市民が街を練り歩きます。
会津藩奴隊(あいづはんやっこたい)も、毎年ゲスト参加しています!

知れば納得!真っ赤な顔の会津藩奴隊とは??

まとめ

会津若松市のゆかりの地、長岡市についてまとめました!

会津とのゆかりは、幕末に結ばれた奥羽越列藩同盟

長岡は、戊辰戦争の戦場にもなりました(北越戦争とも)。
長岡城跡は、今はJR長岡駅になっています。
この北越戦争で指揮をとった河井継之助の縁でもつながっており、記念館が、長岡市と奥会津只見町にあります。

また、長岡は大きな花火大会が有名です。
戊辰戦争後のできごとにまつわる、『米百俵まつり』も行われています。

米百俵の精神を胸に、会津まつり藩公行列に参加してくださる長岡市のみなさん。
戊辰戦争から150年の2018年は、奥羽越列藩同盟にスポットを当てた隊列になる予定です。

奥羽越列藩同盟の中でも、超重要な位置づけであった長岡が、どのような形で登場するのか?!注目です♪

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