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会津若松市内に住む主婦が、歴史をイチから勉強しながら書いています。

毎年9月に、会津若松市で会津まつりのなかで開催される会津藩公行列。

会津藩公行列を構成する一つ一つの隊には、どんな意味があるのでしょうか??
また、どんな団体が、その役を演じているのでしょうか??
その背景を知ってから行列を見てみると、あら不思議!
長~い藩公行列の、はじめから、おわりまで、目が離せなくなっちゃうんです♪
藩公行列を楽しむために^^各隊の構成をくわしく見ていきましょう!
隊列全体の紹介はこちらの記事をどうぞ。

隊列全体についてはこちら⇒【完全版】2017年隊列紹介
長岡藩銃士隊の隊構成
新潟県長岡市のみなさんが扮する、長岡藩銃士隊(ながおかはん じゅうしたい)!
長岡藩があった、会津ゆかりの地の新潟県長岡市から、米百俵(こめひゃっぴょう)まつり実行委員会のみなさんが登場です。
銃士隊大隊長・山本帯刀(たてわき)役は、米百俵まつり実行委員長の星貴さん
軍事総督・河井継之助(つぎのすけ)役で騎乗するのは、同会顧問・長岡市議会議員の廣井晃さんです。
長岡藩銃士隊紹介
長岡藩は、今の新潟県長岡市にあった藩。
戊辰戦争では、長岡藩も奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加盟しました。
そもそも、米沢藩や、仙台藩のように、盟主として同盟をひっぱる藩がある一方で、消極的に、あるいは、内心は、いやいやながら参加した藩もありました。
しかも、戦いが不利になると、やむをえず脱退する藩がほとんどでした。
そんな中、長岡藩は、負けるまで徹底抗戦した数少ない藩です。
(ほんとうにさいごのさいごまで戦ったのは、長岡藩くらいなんだそう。)
戊辰戦争当時の藩主は、第13代・牧野忠毅(まきの ただかつ)。
▲牧野忠毅 画像引用:ウィキペディア
しかし、長岡藩・幕末と言えば、藩主より有名なのが、会津藩公行列にも登場する、家老・河井継之助!
▲河井継之助 画像引用:ウィキペディア
戊辰戦争では、従来の槍(やり)をつかう戦法から、銃剣(じゅうけん)へと変更させて戦いました。
北越戊辰戦争で足にうけた銃弾がもとで、会津へ逃れる途中、福島県奥会津(おくあいづ)の塩沢村(しおざわむら)で42才の生涯を終えました。
この地には、河井継之助記念館が建てられています。
もう一人の大隊長・山本帯刀は、本名を山本義路(やまもと よしみち)といいます。(帯刀は通称。)
帯刀は、北越戊辰戦争で大隊長をつとめ、長岡城が西軍に落ちて、仙台藩や米沢藩へ逃れるときには、殿(しんがり)をつとめました。
殿(しんがり)は、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいう。
転じて、隊列や順番の最後尾のこと。引用:ウィキペディア
その後、会津で会津藩と合流して、さいごまで会津藩士とともに奮闘しました。
参加団体紹介
参加団体は、新潟県長岡市米百俵まつり実行委員会のみなさん。
長岡市では、戊辰戦争(北越戦争)後におこったある事件になぞらえて、「米百俵の精神」を伝える「米百俵まつり」が毎年開催されています。
この実行委員会のみなさんが、お越しくださいます。
銃士隊大隊長・山本帯刀(たてわき)役は、米百俵まつり実行委員長の星貴さん
軍事総督・河井継之助(つぎのすけ)役で騎乗するのは、同会顧問・長岡市議会議員の廣井晃さんです。
くわしくはこちら⇒【会津ゆかりの地】新潟県長岡市~米百俵の精神が息づくまち~
まとめ
2017年の会津藩公行列、長岡藩と参加団体を紹介しました。
米百俵の精神をつたえる米百俵まつり実行委員会のみなさんが、長岡藩銃士隊で参加します。
会津で会津藩士とともに、さいごまで戦った大隊長・山本帯刀、そして奥会津でいのちを落とした、河井継之助は馬に乗って登場!
ご注目下さい!
隊列全体の紹介はこちらの記事をどうぞ。
