会津藩公行列でいちばん大事!会津の歴史がつまった歴代領主旗

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会津まつり2022 日程と見どころ!2022年版!会津まつり日程と見どころを紹介♪

そのメインイベントであり、ぜったいに見逃せないものといえば・・・
会津藩公行列です!

ここに登場する、歴代領主旗(れきだいりょうしゅき)。

なにげなくスルーしてしまいそうですが・・・
会津藩公行列を主催する、会津まつり協会ホームページの職員さんによれば、この歴代領主の旗がいちばん大事だというではないですか!!

というわけで、こちらでは、歴代領主の旗に注目します。

歴代領主旗は、7つならんでいます。
その7つの旗を、これからひとつずつ紹介していきますよ!

いったいどういう理由で、いちばん大事なのでしょう??

旗に書かれるのは『領主』の氏

旗に書かれているのは、会津の歴代の領主の氏(姓・名字)。

あれ?藩主(はんしゅ)じゃないの?
だって、藩公行列でしょ?

そんなギモンがわいたあなたは、するどい!

じつは、領主を藩主と呼ぶのは、江戸時代になってからなんですって。
(藩の領主を、藩主と呼びます。)

 
日本史で言う藩は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語である。

 

会津で、江戸時代に初めて1万石以上(23万石)保有した人物が、
保科正之(ほしなまさゆき)公です。


▲保科正之公 画像引用:ウィキペディア

会津が藩になった時の領主=藩主ということで、保科正之公が、会津藩の祖・初代藩主です。

歴代領主旗のならび順は・・・

さて、旗のはなしにもどします。

書かれている名前を見てみると、

1.葦名(あしな)
2.伊達(だて)
3.蒲生(がもう)
4.上杉(うえすぎ)
5.加藤(かとう)
6.保科(ほしな)
7.松平(まつだいら)

この順番で、七つの名前が並んでいますね。

基本的には、左から、支配していた時代が古い順です。

ただし、蒲生時代は、上杉時代をはさんで、ふたたびやってきました。
なので、厳密にいうと、

1.葦名
2.伊達
3.蒲生(1回目)
4.上杉
5.蒲生(2回目)
6.加藤
7.保科
8.松平

というのが、時代の順番になります。

同じ蒲生家ですから、旗が2本あってはおかしいので、こうなっていますが、
この旗は、会津歴代領主のうつりかわりのすべてを示している!!ということになるんです。
会津の歴史がギュギュっと凝縮されているから、いちばん大事というわけですね!!

歴代領主のうつりかわり

さあ、いよいよ、この旗がしめす、会津の歴史を見ていきましょう。
そのまえに、簡単に領主のうつりかわりについて説明しておきますね。

領地を別の場所に移されることを、「転封(てんぽう)」「移封(いほう)」「国替(くにがえ)」といいます。
転封の中でも、領地を減らされて移される場合を、「減封(げんぽう)」
まるっきり領地を取り上げられてしまうのは、「改易(かいえき)」です。

当時の領主たちは、言わば転勤族
お上のひとことで、とつぜん異動(転封)させられたり、領土を減らされて、あらぬ土地に左遷(減封)されたりするのが、常でした。

家臣たちは、領主によって雇われているサラリーマン

たとえば90万石の広ーい土地を持っていた領主が、9万石に減封されたとします。
10分の1の土地・収入で、これまでと同じ人数を雇うのは、むり!!として、リストラされることも多かったのだとか。

さて、ここ会津ではどのようなドラマ(転封)がくり広げられたのでしょうか??

会津の歴史

1.葦名時代(1189年-1589年)20代・400年

領主

1.佐原義連
2.佐原盛連
3.葦名光盛(みつもり)⇒ 横須賀市の地名にちなんで葦名を名乗る
4.葦名泰盛
5.葦名盛宗
6.葦名盛員
7.葦名直盛(なおもり)⇒ 黒川城(のちの鶴ヶ城)をつくる
8.葦名詮盛
9.葦名盛政
10.葦名盛久
11.葦名盛信
12.葦名盛詮
13.葦名盛高
14.葦名盛滋
15.葦名盛舜
16.葦名盛氏(もりうじ) ⇒ 最盛期(戦国時代、全会津制覇)
17.葦名盛興(もりおき)
18.葦名盛隆(もりたか)
19.葦名亀王丸
20.葦名義広


▲葦名の家紋(丸に三つ引)ウィキペディア

葦名時代の始まりは、鎌倉時代

会津の初代領主となったのが、佐原義連(さわらよしつら)公です。
奥州合戦(おうしゅうかっせん)でのはたらきが認められ、会津の地を与えられたと言われています。


▲佐原義連をえがいた絵 画像引用:ウィキペディア

佐原義連公は、

 
相模国の豪族・三浦義明の子。三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原城(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称する。

 

いまで言う横須賀市生まれで、名前の佐原も、横須賀市の地名にちなんだもの。

会津の初代領主・佐原義連がうまれた横須賀市についてはこちら⇒会津ゆかりの地シリーズ・横須賀市

そして、蒲生公時代が、な・な・なんと!じつに400年も続きました。

注目は、3代・光盛公から、姓が葦名(あしな)に変わったこと!
そして、7代・直盛公が、のちの鶴ヶ城になる黒川城の基礎をつくったことです。

葦名時代の最盛期は、16代・葦名盛氏公の時代。
戦国時代、全会津を制覇しました。


▲葦名盛氏 画像引用:ウィキペディア

この、葦名盛氏公は、側室をもたなかったそうで、あとつぎの男子が、17代・盛興だけだったのだとか。
葦名氏の衰退は、これが原因と言われています。

葦名盛氏・盛興・盛隆の葦名三代の墓が、会津若松市内、花見ヶ森廟所(はなみがもりびょうしょ)にあります。

それにしても、400年ってすごいですよね。
葦名時代が終わった1589年から、戊辰150周年の2018年は、429年間。
これとほぼ同じ長さを、葦名氏は支配し続けたというのです!!!!

びっくりというか、もはや言葉が見つかりません。

2.伊達時代(1589年-1590年)1代・1年

領主

1.伊達政宗


▲伊達家の家紋(仙台笹紋)画像引用:ウィキペディア

独眼竜(どくがりゅう)政宗で知られる、伊達政宗(だてまさむね)公。

400年つづいた葦名氏を、猪苗代の摺上原(すりあげはら)の戦いでやぶり、会津に入りました。

そのとき、歴史がうごいた!
摺上原の戦いが行われたのは、こちら。

猪苗代湖のすぐちかくです。

伊達時代の会津の領地には、山形県置賜(おいたま)地方の米沢(よねざわ)市や、北は宮城県石巻(いしのまき)市付近まで含まれ、全国屈指の広さになっていました。

3.蒲生時代(1590年-1598年)2代・8年

領主

1.蒲生氏郷
2.蒲生秀行


▲蒲生家の家紋(蒲生対い鶴) 画像引用:ウィキペディア

1590年、小田原征伐で豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一を果たします。


▲豊臣秀吉 画像引用:ウィキペディア

このとき、伊達政宗は米沢城へもどされ、代わって松阪城から入ったのが、蒲生氏郷(がもううじさと)公です。


▲蒲生氏郷公 画像引用:ウィキペディア

松阪城があったのはこちら⇒【会津ゆかりの地シリーズ】三重県松阪市

蒲生氏郷公は、それまで黒川(くろかわ)城と呼ばれていたお城を、鶴ヶ城(つるがじょう)と名付けます。
また、黒川という地名も、ふるさとの地名にちなんで、若松に改名しました。

蒲生氏郷公の出身地はこちら⇒【会津ゆかりの地シリーズ】三重県日野町

4.上杉時代(1598年-1601年)1代・3年

領主

1.上杉景勝

豊臣秀吉は、1598年に越後91万石の領主・上杉景勝(うえすぎかげかつ)を会津120万石に昇進させます。


▲上杉景勝 画像引用:ウィキペディア

この時の会津の領土には、蒲生時代の領土に加えて、新潟の鶴岡や坂田あたりの土地が、飛び地で入っていました。

【会津ゆかりの地シリーズ】新潟県鶴岡市

しかし、このあとすぐに豊臣秀吉が死去。
鶴ヶ城が手ぜまになると考えた上杉景勝は、会津若松市内の別の場所に新しく神指城(こうざしじょう)の建築を始めます。

神指城の場所はこちら。

鶴ヶ城から約5km、徒歩1時間ほどの場所にあります。

この神指城築城にストップをかけたのが、徳川家康の会津征伐です。


▲徳川家康 画像引用:ウィキペディア

会津征伐から、1600年に関ヶ原の戦いがおこりました。
この敗戦で、上杉景勝は、米沢30万石に減封されたのでした。

5.(再)蒲生時代(1601年-1627年)2代・26年

領主

2.蒲生秀行
3.蒲生忠郷
4.蒲生忠知


▲蒲生家の家紋(蒲生対い鶴) 画像引用:ウィキペディア

宇都宮18万石に減封された蒲生家でしたが、蒲生秀行(ひでゆき)公が、関ヶ原の戦いで徳川家康について戦ったため、ふたたび会津に、60万石で入部しました。

2度目の蒲生時代の大きな出来事は、1611年に会津大地震が起こったこと。
このとき当時7層構造であった鶴ヶ城が大きく傾いたとされています。

蒲生忠郷(たださと)が、子どもがいないまま、26歳の若さで天然痘(てんねんとう)で死去。

▲蒲生忠郷 画像引用:ウィキペディア

上山藩(かみのやまはん・現在の山形県上山市)4万石の領主であった弟の蒲生忠知(ただとも)が、特別にあとを継ぐことが許されました。
このとき、蒲生氏が松山(現在の愛媛県松山市)24万石に減封になりました。

6.加藤時代(1627年-1643年)2代・16年

領主

1.加藤嘉明
2.加藤明成

蒲生氏と入れ替わりで入ったのが、蒲生氏が移った松山20万石の領主だった、加藤嘉明(かとうよしあき)公。


▲加藤嘉明公 画像引用:ウィキペディア

20万石から40万石と、石高(こくだか)は2倍に増えてはいますが、このとき加藤嘉明公は65歳。

松山城と、その城下町づくりに尽力していた加藤嘉明公。
せっかく築いた松山の地を、この歳になって手放さなければならなかったのは、ちょっと辛かったかも知れませんね。


▲松山城 画像引用:ウィキペディア

しかもこの頃の鶴ヶ城は、会津大地震で傾いたままの状態でした。

加藤嘉明公の跡をついだのは、息子の加藤明成(あきなり)公。
会津大地震以来、手つかずになっていた天守閣を、いまの5層の形に建てかえました。


▲鶴ヶ城 画像引用:ウィキペディア

ところが、加藤明成公は、そんな功績をチャラにしてしまう、とんでもないことをしてしまいました。

加藤明成公は、家老の堀主水(ほり もんど)と折り合いがわるく、ついに衝突がおこります。
さいごには、堀主水が会津を出て、和歌山県の北部にある、高野山まで逃げて行ってしまいました。

加藤明成は、ここでおどろきの行動にでます。
堀主水の後を、どこまでも追わせたうえ、とらえて処刑してしまったのです(会津騒動)。

この件が原因で、加藤明成は、会津の領土を没収されることに。
ああ、やめておけばよかったのに・・・。きっと、頭に血が上りやすいタイプだったのですね。

7.保科・8.松平時代(1643年-1868年)9代・225年

領主(藩主)

1.保科正之1643- ⇒ 「家訓」制定
2.保科正経1669-
3.松平正容1681- ⇒ 松平姓・葵紋(あおいもん・1696年)
4.松平容貞1731-
5.松平容頌1750- ⇒ 会津藩校「日新館」完成
6.松平容住1805
7.松平容衆1806-
8.松平容敬1822-
9.松平容保1852- ⇒ 戊辰戦争
10.松平喜徳1868 ⇒ 戊辰戦争降伏
11.松平容大1870 ⇒ 斗南藩移住


▲松平家の紋(会津三葵)

短気な加藤明成公の代わりに、会津に23万石で入ったのが、山形20万石の領主だった、保科正之公。


▲保科正之公 画像引用:ウィキペディア

会津藩の初代藩主です。

異母弟だった保科正之公を、徳川家光公はとても気に入っていました。
保科正之公も、家光公に忠誠を尽くしました。
とくに徳川家への忠誠心をうかがわせるのが、家光の没後に作られた「家訓(かきん)」です。


▲会津藩家訓15カ条 画像引用:福島県観光交流局観光交流課

会津藩家訓についてくわしくはこちら⇒会津藩家訓15条に秘められた想い

保科正之公は、生前、松平姓を名乗ることを拒んでいました。
(養子に入った保科家への遠慮からと言われています)
正之公の没後、3代・松平正容(まさかた)公になって初めて、松平姓を名乗り、松平家の葵紋を家紋として使い始めました。

この葵(あおい)は、現代においても会津では特別な存在になっています。
たとえば、会津若松市の花は、立葵(タチアオイ)。


▲タチアオイ 画像引用:ウィキペディア

会津若松市内の、特に川沿いに多く生えています。

ほかにも、鶴ヶ城北出丸(きたでまる)本店がある、上菓子司「会津葵」に、市内のタクシー会社「葵タクシー」、市内にある「福島県立葵高校」などなど、葵を使ったことばは、数えればきりがないほど!

松平時代の重要な出来事は、なんといっても戊辰戦争ですが、戊辰戦争が起こるまで、松平家は実に225年も続きました。
戊辰戦争から2018年で150年が経ちますが、戊辰戦争から2018年までよりさらに長い期間、会津は松平家の領土だったわけです。

葵がここまで定着しているのは、松平家と領民との結びつきの強さを表しているといえるかも知れません。

一方、松平時代であまり知られていないのが、5万5千石の
南山御蔵入(みなみやまおくらいり)領
奥会津・只見や田島のあたりは、御蔵入領として、会津預かりの幕府直轄地でした。

この地で3代・松平正容公の時代に起こった南山御蔵入騒動(農民一揆)は、南会津義民(ぎみん・一揆の首謀者のこと)として、地元で代々伝えられてきました。
会津地方の小学生~高校生で構成される劇団・現代版組踊『息吹』では、この南山御蔵入騒動を、各地で演じています。

2017年会津まつりでも、演舞が披露されました。

南山御蔵入領を幕府直轄として、会津領と分けていたのは、徳川御三家の水戸藩(25万石)をこえないように、との配慮からだったとされています。
これがもし会津の領土だったら・・・南山義民は、誕生していなかったのかもしれませんね。

まとめ

会津藩公行列でかかげられる、歴代領主旗についてまとめました。

歴代領主の旗には、会津の歴史がギュギュっとつめこまれている!ということが、お分かりいただけたでしょうか??

会津藩公行列では、歴代領主旗は、会津藩奴隊のあと、行列の先頭を歩いてきます。

知れば納得!真っ赤な顔の会津藩奴隊とは??

ぜひ葦名・伊達・蒲生・上杉・加藤・保科・松平の7本の旗をながめながら、会津の歴史をあたまの中で、ざーっとめぐらせみてください。
そのうしろからやってくる行列が、しみじみと、数倍たのしいものになること、まちがいなしです^^

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