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市内に住む主婦が歴史をイチから勉強しながら書いています。
はじめての方はぜひ、はじめての方へをご一読下さい。
毎年会津まつりのオープニングとして行われる提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)。
市内の子供たちが提灯を持って練り歩くこの提灯行列に、どんな想いが込められているかご存知でしょうか??
こちらでは、知っているようで意外と知らない提灯行列についてまとめました!
会津まつりのルーツ
会津まつりのが始まるきっかけとなった出来事をご存知でしょうか?
Wikiペディアには
会津まつりは、1928年の秩父宮雍仁親王と松平容保の孫娘・松平勢津子の成婚を祝って行われた提灯行列がそのルーツと言われる。
とあります。
これは、会津まつり前に市内全戸に配られる”会津まつりガイドニュース”にも書かれてあることがあり、恐らく会津の人なら一度は目にしている一文かなと思います。
これは便利!会津まつりガイドニュースのバックナンバーおまとめリンク集会津の歴史の知識ゼロの私などは、これまで“ふ~ん”という程度で読み流していました。
ところが、先日会津まつり協会を訪ねて会津まつりのルーツとなった提灯行列のお話を伺い、まるでハンマーで頭を殴られたかのような大きな衝撃を受けました。
会津の歴史について知ろう!会津まつりについて知ろう!と言っていながら、うわべしか見えて居なかった・・・!
会津の歴史は、そんなに簡単なものではなかった・・・!ということに改めて気が付いたのです。
話すと長~くなりますし、長~く話してボロが出ないだけの知識がまだ備わっていませんので、こちらでは提灯行列についてだけお話しますね。
戊辰戦争後の会津
とは言え、Wikiペディアにあった1928年の提灯行列の意味を理解するには、戊辰戦争後の会津の置かれた状況からお話する必要があります。
(会津の方に歴史音痴の私が説明するのは釈迦に説法も良いところですが、どうか温かい目でお付き合いください。)
1862年、荒れに荒れていた京都の治安を守ってほしい!と徳川幕府に泣き落とされ、京都守護職として京都の護衛に当たったのが、会津藩主:松平容保公。
会津藩が選ばれたのは、孝明天皇からの信頼も厚かったために他なりません。
ところが、鳥羽・伏見の戦いでいつの間にか『朝敵』とされました。
その後も、新政府軍との徹底抗戦を強いられます。
鶴ヶ城(つるがじょう=会津若松城)では、1ヶ月にわたる篭城戦の末、朝敵の汚名を着せられたまま降伏することになりました。
戊辰戦争での白虎隊や西郷頼母の母親や妻達の集団自決の悲劇は、有名な話です。
しかし、これらは氷山の一角に過ぎません。
会津藩士の家族の自決は200人以上。
亡くなった方は2500人以上だそうです。
生き残った藩士たちも、下北半島(斗南)へ移されました。
その後斗南から会津に1万人ほどが戻ったそうですが、壮絶な戦いに耐えぬき、市民の心のより所である鶴ヶ城が明治7年に市民の反対むなしく解体されるなど、その後も会津にとっては苦しい時代が続きました。
2018年2月3日、4日に、会津若松市内で劇団ぴーひゃららが当時を生きる会津藩士の娘の半生を描いた『流星雨(りゅうせいう)』を公演しました。
戊辰戦争から150年を記念してのこと。
会津藩士の娘である主人公の上田あきが戊辰戦争に巻き込まれ、下北半島(斗南)に移住してからの激動・苦悩の半生を描いたもの。
当時の、想像を絶する日々が語られ、市内でも大きな反響を呼びました。
原作は、小説家津村節子さんの日本女流文学賞受賞作『流星雨』です。
(こちらは絶版になっていますので、興味のある方は『海鳴』『流星雨』(津村節子自選作品集4)をどうぞ。)
60年後の戊辰の年に舞い込んだ奇跡のニュース
さて、どんよりと暗くなってしまったところで、話を提灯行列に戻します。
つらい時代を必死に生き抜いてきた会津の人々の耳に、にわかには信じられないニュースが飛び込んできます。
それこそが、会津まつりのルーツとされる、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)と松平容保の孫娘・松平節子(せつこ)さまのご成婚のニュースでした。
秩父宮雍仁親王は、昭和天皇の弟さん。
一方の松平節子さまは、戊辰戦争で『賊軍』『朝敵』と呼ばれた当時の会津藩主松平容保公のお孫さんです。
天皇の弟さんに、会津藩主の孫娘が、嫁ぐことになったのです!!
一度天皇に弓を引いた一族の人間を、皇室に迎えることがあると思いますか??
そう、絶対にあり得ません。
戊辰戦争の最中から、自分たちは絶対に賊軍などではない!!と信念を貫きつづけながらも、地獄の道を進まざるをえなかった会津。
戊辰戦争後は、その汚名をいかに晴らすか、必死に考えていた人も多かったはずです。
実際、先日あべ総理が施政方針演説で引き合いに出した※会津藩の白虎隊(びゃっこたい)出身の山川健次郎さんも、会津の潔白を世に知らしめるために『京都守護職始末』を兄・浩さんと大変な思いをして発行しました。
残念ながら、それで会津に貼られた『逆賊』のレッテルをはがすことは出来ませんでしたが。。。
※安倍総理のニュースはこちら⇒首相「国の力は人に…」白虎隊・山川氏引用(毎日新聞2018年1月22日)
そこに60年間経って初めて、『会津は朝敵などではない』ということが、あろうことか、皇室から示されたのです。
当時の会津の人々は、このニュースに狂喜乱舞した、と言われています。
【ならぬことは ならぬ】の頑固で物静かな会津の人々が狂喜乱舞する姿はまったく想像できません。
会津の人々にとって、それだけアンビリーバボーなビッグニュースだったということです。
そして迎えた節子さま里帰りの日。
一部の男性達は紋付き袴で節子さまを出迎えました。
そして、市民たちは、節子さまがいらっしゃる松平家の別荘に提灯を持って行列を組んで向かいました。
その行列に節子さまは手を振ってこたえたのだそうです。
節子さまが滞在された4日間、会津の町はまさに”おまつり騒ぎ”で、提灯を持った人々が夜通し市中を練り歩いたと言われています。
つまりこれが会津まつりのルーツとなった提灯行列なんです。
この1928年(昭和3年)は、奇しくも戊辰戦争からちょうど60年後の戊辰の年でした。
補足:節子さまはいったい何者?
松平容保公の孫娘・節子さまのことを少し補足します。
松平節子さまは、外交官であった父・恒雄さんの仕事の都合でロンドンで生まれ、その後も海外を転々とした帰国子女。
ワシントンの高校を卒業されたのが1928年(昭和3年)なので、その年に結婚されたということですね。
当時の皇室の妃になるには、皇族か華族の人間である必要があったので、平民であった節子さまは、ご結婚前に一旦子爵で伯父の松平保男(もりお)さんの養女になって華族の仲間入りをしたんだそう。
松平容保公のお孫さんということで会津ゆかりの人であることは間違いありませんが、海外生活が長く、会津に住むことはなかった節子さま。
たまにお墓参りに訪れてはいたそうですが、ぶっちゃけ、節子さまご本人がどれくらい会津愛を持っていたかは疑問じゃないですか?
(こんなこと言ったら、会津の人にめっちゃ怒られそうですが(^^;)
これについて、節子さまの会津への愛の深さを感じさせるエピソードがありました。
実は、雍仁親王のお母さんが節子(さだこ)さんだったので、結婚するにあたって名前を変更する必要があったらしいのですね。
読み方が違えど、まったく同じ表記では紛らわしいですもんね。
しかし偶然にしてはできすぎてる気がしますけど!
そして変更した後の名前がご存知、”勢津子”だったわけですが、勢津子の”津”の字は会津から一文字取ったのだとか!!(因みに”勢”は伊勢からだそうです)
名前に入れるほどですから、会津への愛国心は相当なものであったということですよね。
(疑ってすみません)
また、ご本人の手記『銀のボンボニエール―親王の妃として』の中で、大いなる葛藤を乗り越えて皇室入りを決断したのは、他ならぬ「会津のため」だったと語っています。
受けるのもつらいが、断るのもつらい。高校を卒業したばかりの少女は三日三晩泣きとおし、ついにこの決断をしました。
彼女の中にあったのは会津魂に他ならなかったと思います。
まとめ
会津まつりのルーツとなった提灯行列が、会津にとって天地がひっくり返る大事件だったということがお分かりいただけたでしょうか?
現代まで会津まつりのオープニングとして提灯行列を毎年続けているということに、会津人の誇りを感じます。
子供のころ提灯行列に参加していた、という会津出身の友人に、この話をしました。
彼女は初耳だったそう。
そして、しばし感激にひたった後に、「・・・ていうか、そういうこと伝えようよ!!」と我に返って話していました。
現在も、会津まつりの提灯行列はあくまで会津まつりのオープニングとしてだけ伝わり、このようなエピソードが語られることはあまりないようです。
当時も、そして今も、“なぜやるのか”という大切な部分が伝えられていないのは、本当にもったいない!!と思います。
一人でも多くの方に知っていただけるよう、ご家族やご友人にこの話を伝えていただけたら嬉しいです!!
この提灯行列がどのようにして会津まつりに発展していったのか、、、
こちら↓もあわせてご覧ください。
この記事は、会津の歴史シリーズ 第9回 会津の歴史⑧(戊辰戦争のあと)を参考にさせて頂きました。
2022年版!会津まつり日程と見どころを紹介♪