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会津若松市内に住む主婦が歴史をイチから勉強しながら書いています。
はじめての方はぜひ、はじめての方へをご一読下さい。
毎年9月に会津若松市で三日間に渡って開催される会津まつり。
このメインイベントである会津藩公行列には、ゆかりの地からのゲスト参加がとても多いんです!
それぞれの都市が、
・どこにあるのか?
・会津とどんなゆかりがあるのか?
・一体どんなまちなのか??(名物や、歴史、伝統行事など)
これらが分かれば、会津まつりが数倍楽しくなること間違いなし!!
というわけで、調べてみましたよ~♪
こちらの記事で紹介するのは、福島県白河市(しらかわし)!
会津まつりには、2017年にプレ戊辰150周年として、戊辰戦争のご縁で、初めて参加してくださいました。
福島県内のゲスト参加は、白河市が史上初でした!
そんな白河市について、くわしく見ていきましょう!
白河市はどこにあるの?
白河市の場所は、こちら。
福島県の、栃木県との県境。
那須のお隣です。
では、白河市から会津若松までのアクセスを見てみましょう。
こちらです!
車で、約1時間半の距離。
会津若松市~白河市の移動は、主に4ルート。
・高速道:磐越道~東北道
・一般道①:国道294号線(勢至堂=せいしどう)
・一般道②:国道118号線~甲子(かし)道路
・一般道③:国道118号線(羽鳥湖まわり)
どのルートを使うのかは、会津若松市民の間でも、意見が分かれます。
会津若松市内の南側から出発するか、北側から出発するかで最短ルートが変わってきます。
南側からなら、一般道②国道118号線~甲子道路、北側からなら一般道①勢至堂、という方が多いです。
あとは、好みですね。
東北自動車道に乗りたい場合は、一般道①の勢至堂ルートで、白河中央スマートインターチェンジから乗るのが、わたしのオススメです。
こちらのルート。
これは、江戸時代に使われた会津五街道のうちの、白河街道にあたります^^
画像引用:会津若松観光ナビ
電車の場合は、白河~(東北本線35分)~郡山~(磐越西線1時間15分)~会津若松と、ざっと2時間。
電車や、高速道路を使う場合は、必ず郡山まで一旦出るようになるので、かなり遠回りさせられている感があります。
白河市と会津のゆかりは?
会津ゆかりの地ネットワークに、県内の都市についての記載はありません。
白河市には、かつて『白河藩』がありました。
しかし、戊辰戦争当時は、幕府直轄地になっており、白河藩は消滅し、白河藩士はいませんでした。
え?どういうこと?!という感じですよね。
幕末の白河藩主・阿部正外(あべ まさとう)が、戊辰戦争が起こる2年前に、強制的に隠居させられてしまったから。
家督をついだ阿部 正静(あべ まさきよ)も、棚倉藩(たなぐらはん)に国替えされてしまいました。
棚倉藩についてはこちらの記事でまとめています。
隠居させられてしまったのは、兵庫開港要求事件が原因。
幕府の外交官であった阿部正外は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国に開国を迫られ、朝廷の許可なしに調印してしまった罪に問われたのでした。
▲阿部正外 画像引用:ウィキペディア
そんな、白河藩不在の白河で、何が起こったのか??
幕府の直轄であった小峰城(こみねじょう・白河城)を、会津藩が占拠します。
斎藤一(さいとう はじめ)率いる新選組をはじめとする、旧幕府軍がここに集結しました。
間もなく新政府軍に小峰城を奪われますが、これを取り戻すべく、幾度となく衝突が起こりました。
仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津藩・庄内藩と提携し新政府と敵対する軍事同盟成立に際し白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。ここに戊辰戦争の東北地域での戦闘・東北戦争が勃発した。しかし新政府軍は約700名程度で列藩同盟側約2500名の駐屯していた白河城を奪還した。同盟軍は白河を経由した関東への進軍を意図し約4500名まで増援を行い7回にわたって攻撃したが、新政府軍は劣勢な兵数で白河城を守りきった。
引用:ウィキペディア
▼戊辰戦争で焼失し、その後復元された小峰城
画像引用:ウィキペディア
この一連の戦いは、白河口の戦い又は白河戦争と呼ばれています。
ここでの勝敗が、実質的な戊辰戦争の勝敗であった、と言われることもあります。
陸奥(みちのく)の入口、白河口での戦いは、それほど重要な意味を持つものでした。
2018年には、白河戊辰戦争150年記念事業が行われています。
白河については、NHK大河ドラマ「八重の桜」でおなじみの山本八重さんが、晩年(85歳のころ)こんなうたを詠んでいます。
老いぬれど 又も越えなん白河の 関のとざしは よしかたく(難く)とも
「ふるさと忘れがたく」という詞書(ことばがき=まえがき)がつけてあります。
最初のだんなさま、新島襄(にいじま じょう)さんの40周忌のために、電車で会津若松へ向かう途中に詠んだとされています。
白河駅から見えた、石垣だけになった小峰城跡を見て、どんな想いでこのうたを詠んだのでしょうか?
白河市と言えば?
白河の関
白河と言えば、『白河の関』という言葉を連想される方が多いかも知れませんね!
よく、甲子園(高校野球)で、優勝旗が『白河の関』を越えられない、などと言われるのを耳にします。
実は、いまだに、東北六県から、高校野球の優勝校が出たことは無いのです。。。
2004年、北海道の駒大苫小牧(こまだいとまこまい)が、甲子園80年の歴史で初めて優勝!
『白河の関』を初めて越えた!という声も聞かれる一方、『白河の関』は、東北への入口、という見方をすれば、いまだに『白河の関』を越えていない、という認識が一般的ですかね。
画像引用:日刊スポーツ
ここでわいてくるのが、『白河の関』って、そもそも何よ?
という疑問ではないでしょうか??
ウィキペディアによると、
白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。
とあります。
諸説ありますが、大和朝廷(ヤマト)のころに使われた、東北の入口としての関所だったようです。
松平定信(さだのぶ)が、1800年に『白河の関』の場所を『白河神社』であると突き止め(推測し)ました。
▲松平定信による古関蹟(こかんせき) 画像引用:ウィキペディア
その場所が、こちら。県道76号線沿いにあります。
戊辰戦争で、東北の入口として重要な戦いの場になった白河なので、『白河の関』というのは、この時の言葉かと思い込んでいましたが、違ったのですね!!!
意外でした!
白河だるま
白河は、だるまが有名なんです!
約300年の歴史がある『白河だるま』は、顔全体が福々しく、眉は鶴、ひげは亀、あごひげは松、びんひげは梅に見立てられさらに、顔の下には竹を模様化した「鶴亀松竹梅」を取り入れた縁起の良いだるまです。また、白河だるまは「祈願だるま」としても知られており、目なしだるまに願いを込めて書き入れる習わしもあります。
画像引用:白河だるま総本舗ホームページ
JR新白河駅には、小峰城をバックにダルマが新幹線に乗っている!こんな撮影スポットがありますよ♪
白河ラーメン
会津人に、「白河と言えば?」とたずねれば、まず間違いなく最初に帰ってくるのが、ラーメン!という答え!
画像引用:ウィキペディア
福島県では、会津の喜多方ラーメンが有名ですが、実は白河ラーメンもここ最近、大変なブームになっています!!
ウィキペディアによると
(ウィキペディアに白河ラーメンという項目があることにびっくり!)
豚骨や鶏ガラを主体とした醤油ベースの澄んだスープと、スープが絡みやすい多加水の幅が広い縮れ麺が大きな特徴。木の棒で麺を打つ手打ち麺が伝統的なスタイルだが、最近は減少傾向にある。具はネギ、チャーシュー、メンマ、鳴門巻き、ホウレンソウなど。縁を食紅で塗り、炭火で焼いてから煮るチャーシューを使う店も多い。
とあります。
モチモチ麺が、白河ラーメンの特徴です♪
ツルツルのワンタンを出すお店も多く、ワンタン麺が人気です!!
白河市内には、沢山のラーメン屋さんがありますが、いちばん有名なのはとら食堂です。
まとめ
会津若松市のゆかりの地、白河市についてまとめました!
会津とのゆかりは、戊辰戦争で会津藩が戦った白河口の戦いの地であること。
会津藩が新政府軍と争奪戦をくりひろげ、ここで戊辰戦争の勝敗が決まったともいわれる、小峰城があった場所です。
そして、ヤマトの時代に『白河の関』があり、この言葉は東北の入口という意味合いで、現代も使われています。
名物は、白河だるま。
そして、モチモチツルツルのワンタン麺が人気の、白河ラーメンが食べられるまちです!
戊辰戦争当時、白河藩士はいなかった!という衝撃の事実があります。
2017年の会津まつりには、会津藩士の役柄で登場して下さいました。
白河市のみなさんが扮する、会津藩士たちに、みなさま、ぜひご注目ください♪