会津藩家訓15カ条に秘められた想い。保科正之公の娘・媛姫のおどろきの死因とは??

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2018年は、戊辰(ぼしん)戦争・明治維新(いしん)から150年の記念の年。
戊辰戦争や明治維新についての話題が、毎日ニュースをにぎわせていますね^^

戊辰戦争に関連して語られることが多い、会津藩が京都守護職(きょうとしゅごしょく)を引き受けた経緯について、ご存知でしょうか?

幕末、京都の治安がめちゃめちゃ悪い状態になりました。このとき、京都守護職を頼まれたのが、会津藩です。
これを引き受けていなければ、戊辰戦争でやっつけられることはなかったのに。。。
松平容保(まつだいらかたもり)には、先を見通すちからが足りなかったのね。
そう思われるかたもいるでしょう。

松平容保公が、京都守護職を断れなかった理由とされているのが、会津藩家訓(かきん)です。

こちらでは、その会津藩家訓と、15カ条の中に秘められた、おどろきの真相についてご紹介します。

保科正之がつくった会津藩家訓

家訓を定めたのは、初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)公です。

 
 保科正之は寛文8年(1668)4月11日、会津藩の「藩」の方針を決め、首席家老 田中正玄(たなかまさはる)を江戸屋敷に呼んでこれを授けました。これが「家訓15カ条」です。
以来、会津藩ではこれを藩是(はんぜ)とし、こと あるときは、これをよりどころとしさまざまな決断をしました。会津藩の精神的な柱といっても良いでしょう。
 尚、誰が草案を作成したかについては、諸説あるようですが、保科正之と山崎闇斎が共同で作成したのではないかと考えられています。

 
引用:会津若松観光ビューロ―

家訓15カ条全文はこちら。

 
家訓
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。
一、兄を敬い、弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ、法を畏るべし。
一、家中は風義を励むべし。
一、賄を行い、媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。

  右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
  寛文八年戊申四月十一日 会津中将 
                   家老中

 
引用:福島県観光交流局観光交流課


▲会津藩家訓15カ条 画像引用:福島県観光交流局観光交流課

松平容保が守った会津藩家訓

松平容保公が、京都守護職を断れなかった理由とされているのが、この最初の条文です。

 
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

 

大君というのは、徳川家(家光)のこと。
おおざっぱに解釈しますと
徳川家には、とにかく忠臣をそそがなければならず、他の藩がこれくらいだから、同じでいいとか、そういう問題ではない。
もし、徳川家に背くようなことをしたら、わたしの子孫じゃないから、みんなそんなやつの言うことは聞いてはいけない。

と、こんな感じでしょうか。

松平容保公は、高須(たかす)藩主・松平義建(まつだいらよしたつ)の六男として生まれました。
(高須藩は、岐阜県にあった藩)
もともとは、藩主になれる見込みはうすい生まれだったのです。

それが、実の叔父にあたる会津藩第8代藩主・容敬(かたたか・高須松平家出身)の養子になり、会津に来ました。

▲松平容敬 画像引用:ウィキペディア

ここで会津藩家訓(徳川家は絶対)についても、みっちり仕込まれ、のちになんと、会津藩主になりました。

そんなわけで、会津藩家訓をやぶってはいけない、という想いが、人一倍強かったと言われています。
なにしろ、家訓を破るものは、会津藩主の資格はない、と、家訓にうたわれているわけですから。

松平容保公は、京都守護職を何度も断ったにもかかわらず、断り切れずに引き受けることになりました。
そうして、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争で、徹底的に叩かれることになってしまいました。

でもまあ、引き受けないわけには行かなかったわけですし、その状況で断れる人はまずいないですよね。
なので、引き受けた松平容保が悪い!とは、わたしはまったく思いません。

「婦人女子の言、一切聞くべからず」の真相

会津藩家訓の中に、「婦人女子の言、一切聞くべからず」という一文があります。

NHK大河ドラマ「八重の桜」をごらんになった方は、八重さんのことば結構きいてたじゃん、と思われるかもしれませんね。
家訓まもってないじゃん!!

というのはとりあえず置いといて。

今の世の中だったら、かなりのバッシングものの一文ですが、当時としても、かなり違和感がある一文です。
わざわざこんな条文をもりこむ必要は、あったのでしょうか?

保科正之公としては、どうしても盛り込まなければならない理由があったのです。

媛姫(はるひめ)毒殺事件

保科正之公が、家訓に婦人女子に関する一文を入れるきっかけとなった、おどろきの出来事が、媛姫(はるひめ)毒殺事件です。

松平容保公の正室の菊姫は、20歳の若さで亡くなりました。
後妻(継室)に入ったのが、於万(おまん・於万の方(かた))です。
会津藩二代目藩主・保科正経 (ほしなまさつね)公の実母です。

ウィキペディアには次のように書かれています。

 
長女・媛姫は上杉家に嫁した後、実母・於万の方による四女・摩須毒殺未遂事件で誤って毒を飲んで急死した。於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、暗殺を謀ったらしい。

 

於万の方が生んだ松平容保公の娘・媛姫(はるひめ)は、米沢藩へ嫁ぎました。
その後、側室の生んだ摩須姫(ますひめ)が、加賀藩(かがはん・米沢より大きい藩)へ嫁ぐことになりました。
これに嫉妬した於万の方が、摩須姫の嫁入り前のお祝いの席で、お膳に毒を盛ったとされています。
そのお膳を誤って媛姫が食べてしまったとか!!
そんな、うそみたいなはなしで、於万の方は、実の娘である媛姫を、毒殺してしまったと言われています。

これに激怒した保科正之公は、10年後に定めた家訓の中に、例の条文を入れた、と言われています。

保科正之公は、前年に実の息子・正頼を、明暦の大火(めいれきのたいか)のあとに亡くしたばかり。


▲明暦の大火を描いた戸火事図巻 画像引用:ウィキペディア

保科正之公は、正室を20歳の若さで亡くし、その後も幼児のうちに子どもを立て続けに亡くしてきました。

二人続けて、一人前となったわが子を亡くした哀しみは、計り知れません。

会津藩家訓「ならぬものはならぬ」??

会津と言えば、ならぬものはならぬの教えで有名です。

あれ?家訓には、ならぬものはならぬってないの??
そう思った方もいらっしゃるかもしれませんね。

実は、これは家訓ではなく、会津藩士が通った学校(藩校)である、日新館(にっしんかん)の什のおきてのさいごの一文です。


▲什のおきて 画像引用:會津藩校日新館ホームページ

什(じゅう)というのは、日新館の中で子どもたちが作ったグループのことをいいます。
そのグループごとに、グループ(什)のルール(おきて)を作っていたそうです。
じゅうのおきてと言いますが、十人だったわけでも、十個の掟があったわけでもないんですね。

ならぬものはならぬものです

この精神は、今のあいづっこ(会津の子どものことをこう呼びます)たちにも浸透しています。

初めて会津に来た時、駅に掲げられたあいづっ子宣言に、「なんてネガティブなんだ~!」と思ったわたし。
ならぬものはならぬ=できないことはできない
と解釈したからです。
駅にデカデカとそんなこと書いちゃうわけ〜?!と衝撃をうけました。


▲あいづっ子宣言 画像引用:会津若松市ホームページ

しかし、本来の意味はそうではなく、
やらなければならないことは、やらなくてはならない
やってはならないことは、やってはならない

そういうことなのですよね。

会津人の頑固さ・信念をつらぬくつよさは、こういうところからも作られているのかな、とおもいます。
(冬のきびしさも、かなり影響しているとはおもいますが)

まとめ

会津藩家訓は、初代藩主・保科正之公によってつくられたものであること。
会津松平家に養子に入った松平容保公は、この家訓を大切にしており、京都守護職を断り切れなかったこと。
そして、条文の中にある「婦人女子の言、一切聞くべからず」は、媛姫毒殺事件がきっかけとされていること。
などなど、お分かりいただけたでしょうか??

会津藩公行列に、保科正之公の正室・菊姫は登場するのに、継室の於万の方は登場しません。


▲2017年会津まつりガイドニュース隊列表より抜粋

於万の方が後妻だからでしょうか?
それとも、この事件のことが関係しているのでしょうか??

於万の方の暗殺について、ほんとうにあったことなのかどうかわからない、という記載もありました。
真相は、どうだったのでしょうね?!
はっきりしているのは、菊姫のあとに、於万の方が継室に入って、媛姫を産み、媛姫が米沢藩へ嫁いでいること。

これがきっかけで、米沢上杉家は滅亡の危機を脱することにもなったのです。

会津藩公行列で、輿車(こしぐるま)に乗ったかわいい菊姫が登場したら、ぜひ、於万の方と、媛姫のことも思い出してくださいね^^

米沢市と会津のゆかりについてくわしくは、こちらの記事をどうぞ。

【会津ゆかりの地シリーズ⑪】米沢市~歴史と文化が息づく上杉の城下町!
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