会津は山口(長州)を恨むべきなのか?遺恨はどこから?

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会津、戊辰戦争、とくれば、すぐに連想されるのが、
「薩長(さっちょう)にくし」という風土。

さて、会津のこの薩摩・長州への因縁、とりわけ長州嫌い
一体どこからきているのでしょうか?
そもそも会津人は、本当に長州がキライなのでしょうか?
そして、会津が恨むべきは、本当に長州なのでしょうか?

最近見つかった重大な記録についての解釈も含めて、くわしく解説します!

会津人はどれくらい薩長がキライなのか

会津人が薩摩・長州がキライと言われている理由は、言うまでもありません。
戊辰戦争で敵だったから。

新政府軍でリーダー格だった、薩摩藩、そして長州藩が憎たらしくてたまらない!
とりわけ、長州(山口)は絶対許さない、山口の人間とは結婚を許さない!と言った話まで聞きます。

私の山口出身の友人が、私の結婚式で会津若松まで来てくれたとき。
タクシーの運転手さんにどこから来たのか尋ねられた彼は、
「ボコボコにされるかっち思った」と恐怖体験を語っていました。
(実際を危害を加えられたということはありません)

会津から遠く離れた山口でも、自分たちが会津から恨まれているというのは常識になっているようでした。
今からちょうど10年前のことです。

ただ、当時も今も、ここは会津人の間でもかなり二極化しています。

私が住んでいて感じる実感としては、アンチ山口を唱える人は、中年以上の方に少し。
若い人で気にしている人はほとんどいません。
ただ、当時の長州を許せるか、と言われれば、手放しでは許せない、という人が大半かと思います。

どうして長州が嫌いなのか?

戊辰戦争を主導したのは、薩長ですが、戦いに加わったのは、最終的には30を超える藩だったわけですが、なぜか薩長だけが憎い。
それもとりわけ、長州だけは許せない。

会津まつりで殺陣(たて)で戦う相手も、白いかつら(白熊=はぐま)を被った長州藩士。

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これはどこからくるのでしょうか?

根拠はないのですが、私の推論をひとつ。

長州は蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)で会津藩に負けたせいで『朝敵』とされている。

長州はきっと会津をにくんでいたから、やらなくてもいい戊辰戦争なんか起こして、会津を徹底的に叩いたに違いない、という発想ではないかなと。

まあ正確なところは分かりませんが、ここを掘り下げても仕方がないので次へ進みます。

うらみのもとは埋葬禁止令

長州への遺恨の根拠とされているのが、戊辰戦争後の埋葬禁止令

戊辰戦争で会津が降伏したのが旧暦9月22日。


写真引用:ウィキペディア

この時、新政府軍が会津藩士の遺体に触れることを許さなかった。
翌年2月まで、野ざらしのまま埋葬されなかったというのです。

冬は雪深い会津ですから、遺族も冬の間雪の下に放置されるのを、ただ見ているしかなかった。
しかも、埋葬しようとするものには、処罰が下された。
酷い話です。

会津若松市内には、新政府軍の死者が眠る西軍墓地があります。
会津は敵の戦死者もきちんと弔(とむら)った。
なのに埋葬すらさせない、憎き敵!となるのは当然です。
半年も放置されたとなれば、身内の心中は「察するにあまりあり」ですよね。

会津若松市の最近までの見解としても、遺体が埋葬されたのは、戊辰戦争後の翌年2月とされてきました。

一般社団法人会津若松観光ビューロー教育観光用のサイトにも


 ●戊辰戦争後の会津

戦後の若松は戦火によって荒れ果て治安は乱れていた。戦死者を葬ることもできず、武家屋敷の大半と町家の3分の1は焼失。

 

ただ、ここでうかぶ一つの疑問。

会津が負けた後、直接会津を取り締まっていたのは長州じゃなかったんです。

薩長軍はすぐに次の戦地函館へ向けて出発。

残っていたのは、米沢藩や加賀藩でした。

米沢藩と言えば、もともとは奥羽越列藩同盟で味方をしてくれたのに、最終的には新政府軍に加わった藩。
本当に埋葬禁止令が出ていて、取り締まりをされていたなら、恨みの矛先がすこしは米沢藩に向かってもよいんではないか?と。

それでも、やっぱり長州が憎かった。長州だけが。。。
ちょっと不思議です。

埋葬禁止説をくつがえす資料が見つかった?!

2017年10月、戊辰150周年を控えた会津若松から、とんでもないニュースが飛び出します。

なんと、会津藩士の遺体が、10月のうちに埋葬されていた記録が見つかったというのです!!

 
『<戊辰戦争>戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料』

戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。(中略)
史料は「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」で、戦死者の埋葬や金銭支払いが記入されている。市から調査を受託する研究会が昨年12月に発見。地元在住の会津藩士子孫が1981年に若松城天守閣博物館に寄贈した史料に含まれていた。
 それによると、新政府は会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)、埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が中心になって567人を64カ所に埋葬した。(後略)

 
引用:2017.10.03 河北新報

福島の地方紙だけでなく、新聞各社がこぞってこのニュースを取り上げました。

また、このニュースの中で、発見者の野口信一さん(前会津図書館長)のコメントとして

 
会津若松市民の長州藩(山口県)に対する感情的なしこりの一因になった埋葬禁止説が覆るとして、野口さんは「藩士がすぐに埋葬されたことが分かり、喜ばしい」と話している。

 
と紹介していました。

戊辰戦争での死者3,000人に対して、567人なので、全然数は足りていないのですが、埋葬されていた、という記録が出て来たというのです。

この記録をどう解釈すべきか?

実は私は当初、ニュースの信ぴょう性自体をうたがっていました。

戊辰150周年のこのタイミングで発見されるなんて出来すぎている。
薩長と会津を仲良くさせたい心ある人が、歴史資料をでっち上げたんじゃないの?という考えすら頭をよぎっていました。

ところが、先日訪れた歴史資料センター『まなべこ』の歴史質問“レファレンス”で考えが180度変わりました!
その時の記事はこちら。

子連れでも安心!会津の歴史を学ぶなら会津歴史資料センターまなべこへ!

運よくこの発表をしたご本人からお話を伺うことが出来たからです。


写真引用:2017.10.03 河北新報

この事で私が持っていた下記2つの謎がとけました。

1) 死者3,000人に対し567人だけ埋葬?
2) 山主さんとらわれ事件は?

それぞれ詳しく解説しますね。

死者3,000人に対し567人だけ埋葬?

このとき見つかったのは、567人の埋葬記録。

戊辰戦争で亡くなった方は3,000人と言われています。
これは、戦没者名簿という形で残っているんだそうです。

それに対して567人だけ埋葬されても、半年間野ざらし説がくつがえることはないように思えますよね。

実は、この数の解釈がまちがいだったのです。

戊辰戦争で亡くなった人数と言うのは、鳥羽・伏見の戦いから函館戦争までをひっくるめた人数。
つまり、会津で亡くなったのが3,000人というわけではないのです。

鳥羽・伏見の戦いでは少なくとも115人の会津兵がなくなり、京都の金戒光明寺でまつられています。


金戒光明寺 写真引用:ウィキペディア

白河では、700人が亡くなったとされ、白河で埋葬されています。
戦いが北上してくるときに山の中の戦いで亡くなった方もいます。

会津で亡くなった方で言えば、
1ヶ月の鶴ヶ城での篭城戦が始まる前に会津藩士の家の婦女子233人が足手まといになるのを恐れて自害。
これに加えて老人も自害しています(人数不明)。
篭城中に亡くなった240人余りは城内の空井戸に放り込まれていましたが、引き上げられて埋葬されている。
ここに、今回記録が見つかった567人。

233人+α(不明)+240人+567人=1,040人+α

2月に阿弥陀寺に葬られた人数が1,281人ですから、まあまあ妥当な数字なのです。


写真引用:ウィキペディア

そもそも阿弥陀寺の1,281人も、あやしいと野口さんはおっしゃっていました。

当時は、戦った相手のくび(頭部)を手がらとして持ちかえっていました。
これを嫌って、負け戦(いくさ)の場合は、味方の頭部だけはなんとしても持ちかえっていたのだそう。
今だったら考えられないことですけど。。。

と言うことは、頭部だけの遺体、胴体だけの遺体が沢山あったはず。
これをどうやって数えたか?
正確な人数を割り出すのはかなりむずかしそうですよね。

2月に阿弥陀寺へ葬られたのは、あくまで『改葬』であって、『埋葬』ではなかった。
記録に残っているのも、『改葬』と言う言葉だけ。
それが、いつの間にか2月に『埋葬』、野ざらし説へ発展した。
これが野口さんの見解でした。

山主さんとらわれ事件は?

埋葬禁止令の根拠の一つが、飯盛山の山主さんのお話です。

飯盛山の山主さんは、飯盛山で自害した白虎隊士が放置されているのがあわれで見ていられませんでした。
そこで、自主的に遺体を埋葬しようとしたところ、新政府軍に捕われたという記録が残っているのは有名な話なのです。

これについては、実は新政府軍に捕われた理由が違っているんだそう。
一般的には、あたかも埋葬しようとしたこと自体をとがめられたかのように伝わっています。
しかし実際は、会津藩士の命令でやったんだろう、と疑われたためにつかまり、その疑いが晴れて釈放されているのだとか。

そもそも出どころはどこだったのか?

会津人がずっと信じていたこの埋葬禁止令のこの出所はと言えば、

 
太平洋戦争の終戦後に書かれた『会津史談会誌第33号』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には、新政府軍の命令によって遺体の埋葬が禁じられたという記述がある。この情報を元にした歴史小説などには「会津藩士の遺体埋葬を禁止し、腐乱するまで放置した」という記述が多く見られる。

引用:ウィキペディア
 
ということで、この会津史談会誌第33号が出される昭和32年12月になって初めて世に出た説であることになります。

会津史談会ホームページによると、会津史談会誌の創刊号は昭和6年。

創刊号に載らないにしても、その後30年近くも全く語られなかった話が突然出ている。
これはちょっと違和感があります。

語られなかった歴史が語られるとき、そこには何らかの意図が隠されていることがあります。

例えば白虎隊の自決の件も、実は太平洋戦争のころになって広く伝えられました。

15,16歳の少年が、会津のために自ら命を絶った。
これを美談とすることで、『お国のために』命をささげる勇気を国民に与える意図があったというのです。
本当だとしたら、ちょっと怖い話ですね。

野ざらしの件に戻ると、戦後の日本では、戊辰戦争について“敗者の真実”が語られるようになりました。
そのなかで、会津は、『ならぬことはならぬ』の精神の象徴として、今でも当時のことを変わらずにくんでいる『がんこな会津魂』を演出したかった。
何故ならばそれが会津の魅力になるから。

どこまでが狙ってやられたことかわかりません。
ただ、白虎隊の悲劇が観光の目玉となり、その悲劇と会津のがんこさがマッチしたことは確かなんですよね。

まとめ

会津人の長州嫌いについて、最新の情報をもとにまとめてみました!

今まで教えられてきたことが、誰かの思惑ですりこまれたものであるなんて、考えたくないですよね。
戊辰戦争が誰と誰の戦いだったのかすら知らなかった歴史音痴の私も、野ざらし事件だけは知っていたので、相当薩長を恨んでいました。
『西郷どん』見るもんか!みたいな。

殺し合いをした相手同士、複雑な想いがあるのは当然です。
ただ、誤った認識のうえにある恨みは、不毛ですよね。

今回色々とお話を聞かせて下さった野口さんが何度も口にされていた
「一つだけを見て判断するのはキケン」という言葉がとても印象的でした。

埋葬禁止令については、会津若松市で開催中の戊辰150周年記念事業で『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』と題した講演会が行われています。
この中で、これまで唱えられてきた埋葬禁止令が誤りであったことが語られました。

会津若松市の見解としても、これまでの埋葬禁止令ありきの解釈が変わっていくと思います。

もちろん、埋葬禁止令のようなものは、あった可能性が消えたわけではありません。
ほんとうに、あったのかも知れない。
でも、その恨みを、今の時代その土地に生まれた人にぶつけるのは、ちがうかな~と。

会津には、下手に盛らなくても十分たくさんの魅力があります。
会津人のがんこさも、ハンパないです。

戊辰150周年を機に、あやまった伝承による被害者意識を脱ぎ捨てる!
そして、本当の意味で日本に誇れる会津を全面に押し出していけば、もっともっと魅力的な会津が魅せられるんじゃないかな~。

野ざらし説について、会津のみなさんが「ほんとのところ、どうなんだろうね?」と、フラットな目線で語れる日が来るといいなあと思います^^

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