【会津ゆかりの地シリーズ⑪】米沢市~歴史と文化が息づく上杉の城下町!

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毎年9月に会津若松市で三日間に渡って開催される会津まつり。
このメインイベントである会津藩公行列には、ゆかりの地からのゲスト参加がとても多いんです!

会津まつり2022 日程と見どころ!2022年版!会津まつり日程と見どころを紹介♪

それぞれの都市が、
・どこにあるのか?
・会津とどんなゆかりがあるのか?
・一体どんなまちなのか??(名物や、歴史、伝統行事など)
これらが分かれば、会津まつりが数倍楽しくなること間違いなし!!

というわけで、調べてみましたよ~♪

こちらの記事で紹介するのは、山形県米沢市(よねざわし)!

会津同様、山に囲まれた盆地(米沢盆地)にあり、これまた会津とおなじように、冬は雪深い米沢。
古くからつながりが深く、会津ー米沢をむすぶ街道も整備されていたことから、交流がたくさん行われてきました。

会津まつりへは、戊辰150周年を迎える2018年に、初めて参加される見込みになっています。

そんな米沢市について、くわしく見ていきましょう!

米沢市はどこにあるの?

米沢市の場所は、こちら。

山形県南部、置賜(おいたま・おきたま)地方にあるまちです。

では、米沢市から会津若松までのアクセスを見てみましょう。

こちらです!

で、約1時間半の距離。

会津若松市~米沢市の移動は、国道121号線で喜多方市をぬけていくルート。
江戸時代で言うところの、米沢街道(米沢から見ると、会津街道)です。

大峠道路とよばれるこの道路は、峠ごえのルートではありますが、まったく山道を走るストレスがありません。
とにかくトンネルが多いのです!

福島県と山形県の県境をまたぐ、大峠トンネルに至っては、なんと全長3,940m!!
トンネルをぬけるのに、制限速度60kmで4分間かかる計算です^^;

そんな長~いトンネルですが、途中で県境を示す表示が出てくるので、「おお~!山形入ったぞ~」とテンションが上がるんですよね(笑)


▲大峠トンネル入り口(福島県側)画像引用:ウィキペディア

信号も、渋滞もなく、平坦で走りやすい。
そのうえ、山間部を走っていますので、景色がすばらしい!


▲大峠トンネル入り口(山形県側)画像引用:ウィキペディア

ドライブにはもってこいのルートです。

米沢市と会津のゆかりは?

会津ゆかりの地ネットワークによると、

 
【ゆかりの人物】保科正之・上杉景勝・直江兼続

 

とあります。

また、絶対に忘れてはいけないのが、幕末の米沢藩と会津藩のつながり。

戊辰戦争で朝敵(ちょうてき)とされた会津藩・庄内(しょうない)藩を守るために、東北・新潟の各藩がむすんだ同盟である、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
仙台藩と共に、この盟主となったのが、米沢藩でした。

米沢藩~奥羽越列藩同盟の盟主

当時の藩主は、上杉 斉憲(うえすぎ なりのり)。米沢藩12代藩主です。


画像引用:ウィキペディア

藩庁が置かれていたのは、米沢城(よねざわじょう)です。


▲米沢城のお堀 写真引用:ウィキペディア

当初は、新政府にしたがおうとしていた米沢藩。
会津藩・庄内藩への討伐令に対して、それはかんべんしてやってはどうか、という嘆願書(たんがんしょ)を出しました。
しかし、この嘆願書は通りませんでした。

かつて、上杉家絶滅の危機を、会津藩主:保科正之(ほしなまさゆき)公にすくわれた、という恩もあり、奥羽越列藩同盟の盟主となったとされています。

米沢藩の危機を救った保科正之

ウィキペディアによれば

 
万治2年(1659年)に媛姫が19歳で死去し、継室を迎えるが、その後寛文4年閏5月7日(1664年6月30日)に嗣子なく、世嗣も指名しないまま急死する。享年26。本来ならば上杉氏は無嗣子断絶となるところであったが、綱勝の岳父に当たる保科正之の仲介などもあって、綱勝の妹・富子が嫁いでいた高家・吉良義央(清和源氏の名門であり、扇谷上杉家・八条上杉家の女系子孫でもある)の長男・三之助が末期養子として綱勝の跡を継ぐことで家名存続を許された。

 

とのこと。

媛姫(はるひめ)というのは、保科正之公の娘。

会津藩家訓15カ条に秘められた想い。保科正之公の娘・媛姫のおどろきの死因とは??

保科正之公が娘を嫁がせた、米沢藩3代藩主・上杉 綱勝(うえすぎ つなかつ)が、26歳の若さで亡くなりました。
跡継ぎを決めていなかったので、上杉家はこれで断絶する、という絶体絶命のピンチをむかえます。


▲上杉綱勝公 画像引用:ウィキペディア

このピンチを救ったのが、会津藩初代藩主・保科正之公。


▲保科正之公 画像引用:ウィキペディア

「綱勝の妹・富子の長男・三之助(さんのすけ)を世継とする届けが遅れていただけ」と助け舟をだしたのでした。
三之助は、綱勝の甥にあたり、このときまだ生まれたばかり(2歳)でした。
のちに、上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)を名乗っています。


▲上杉綱憲公 画像引用:ウィキペディア

初代米沢藩主・上杉景勝と家老直江兼続

上杉景勝(かげかつ)は、上杉謙信(けんしん)の跡をついだ米沢上杉家の2代目。
米沢藩の初代藩主となった人物です。


▲上杉景勝 画像引用:ウィキペディア


▲上杉謙信 画像引用:ウィキペディア

景勝公は、上杉謙信の甥でしたが、のちに養子になりました。
同じく養子の景虎(かげとら)との家督争いを制し、謙信公の跡をつぎました。
米沢藩主になる前は、豊臣秀吉につかえ、五大老(ごたいろう)の一人として、会津藩120万石(米沢を含む)を治めていました。
米沢城には、家老の直江兼続(なおえかねつぐ)を配置したそうです。
(実際は、直江兼続は引き続き会津で、景勝公の補佐を務めたと言われています。)


▲直江兼続 画像引用:ウィキペディア

ところが、1,600年に、徳川家康による、会津征伐(関ヶ原の戦い)が行われました。
これにより、上杉景勝は、米沢30万石に減封になり、初代米沢藩主となったのです。

つまり、会津と米沢は、ともに上杉景勝の領地としておさめられていたもの同士です。

この前の、伊達政宗公、そして蒲生氏郷公・蒲生秀行公の時代にも、会津と米沢は会津の領土として統治されていました。なので、この辺の人物も、ゆかりの人物ですね。

会津と米沢は定期的に通行する必要があったため、会津街道(米沢街道)が整備されてきたそうです。
この頃からの交流が、今も続いているのですね。

米沢市と言えば?

米沢市と言えば、なんといっても上杉の城下町。

市内の観光スポットや、市内で行われるイベントには、軒並み”上杉”というワードが入ってきます。

米沢上杉まつり


画像引用:米沢上杉まつり公式ホームページ

 
 長く厳しい冬が終わり、米沢に春が訪れる頃、米沢上杉まつりが始まります。 上杉まつりは、昔から「県社(上杉神社)のまつり」や「城下のまつり」ともいわれ、上杉神社の例祭日が従業員の公休日だったこともあり、米沢の重要な祝日とされてきました。
 この時期はちょうど松が岬公園の桜も満開になり、たくさんの露店が軒を連ね、公園内で花見やそぞろ歩きを楽しむ人々で賑わいます。
 娯楽の少なかった時代から現在まで、米沢市民はこのまつりに春を迎えた喜びを感じ、米沢の一大イベントとして親しまれてきたのです。

 
引用:米沢上杉まつり公式ホームページ

上杉謙信が合戦前に行ったとされる、軍の守護神を招くための儀式「武禘式(ぶていしき)」
時代衣装を身にまとって市内を練り歩く「上杉軍団行列」
戦国史上最大の死闘といわれる上杉軍と武田軍が激突する「川中島合戦」

などなど、盛りだくさんの内容。
戦国時代好きにはたまりませんね!!

また、このおまつりが行なわれるゴールデンウイーク、米沢市はちょうど桜のシーズン!


画像引用:米沢上杉まつり公式ホームページ

米沢城址のお堀にうつる、こんな美しい桜を見ることができるそう!!

今年の予定は、公式ホームページをどうぞ。

上杉雪灯篭まつり

 
毎年2月の第2土曜と次の日曜日、松が岬公園一帯を主会場に 約300基の雪灯篭と、1,000個の雪ぼんぼり(雪洞)に 燭が灯されます。

 


画像引用:上杉雪灯篭まつり公式ホームページ

雪灯篭まつりは、いちど夜に見に行ったことがあります。

会場がとても広く、ごく一部だけ見て帰ってきました。
雪灯篭や、ぼんぼりの光がとても幻想的でした^^

写真がちょっとボケていますが、なせばなるのモニュメントもありました。

この写真を撮った時には、なぜここにこのようなモニュメントがあるのか知りませんでした。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

このことばは、非常に有名ですよね。

じつはこれは、米沢藩9代藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん・のちの治憲(はるのり))が、家臣に教訓として詠み与えた歌。


▲上杉鷹山 画像引用:ウィキペディア

上杉鷹山公は、破綻寸前であった米沢藩の財政を立て直した”すご腕”藩主です。
当時、会津120万石から米沢30万石に大幅に減らされたにもかかわらず、家臣の召し放ち(リストラ)を行わなかったことが、財政を圧迫していました。
鷹山公は、倹約や、産業の導入などによって、生計を立て直したんだとか。

雪灯篭まつりについて、詳しくは、公式ホームページをどうぞ。

米沢のシンボル!上杉神社

米沢城本丸跡に建てられている、上杉謙信をまつる神社。

雪灯篭まつりの会場にもなっています。


▲上杉神社参道 画像引用:ウィキペディア

上杉謙信が亡くなったのは米沢ではありません。
しかし、後を継いだ上杉景勝が、越後~会津~米沢と自身と共に遺骨を持ち運んだとされています。

お墓は、おなじく米沢市内の上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)にあります。

伊達政宗の出身地

独眼竜政宗(どくがんりゅうまさむね)で知られる伊達政宗(だてまさむね)。
仙台藩の初代藩主です。仙台市についてくわしくは、こちらの記事をどうぞ。

【会津ゆかりの地シリーズ⑩】仙台市~奥羽越列藩同盟の盟主!


画像引用:ウィキペディア

会津で400年つづいた蘆名氏の時代を終わらせたのが、伊達政宗でした。
米沢市は、そんな会津とのゆかりもふかい、伊達政宗の出身地です!!

やさしい風合いが魅力の米沢織物

わたしは米沢が大好き!

もちろん、会津若松市にはない、映画館(イオンシネマ)があるから^^
というのもそうですが、なんといっても、米沢で作られる着物が大好きなんです!

米沢は織物が有名で、今も市内に機屋(はたや)さんがあります。
米沢織は、直江兼続が青苧(あおそ)という植物で織らせたのがはじまり。
そして、今のような本格的な産業にしたのは、先に紹介した”すご腕”藩主、上杉鷹山公だったそうです。

こちらは米沢の機屋さんを見学した時のようす。

 
偶然にも、この日の夜に、この帯をおめしになった方を発見!!

米沢で生産されているのは、置賜紬(おいたまつむぎ)とよばれる紬(つむぎ)。
紬というのは、正絹(しょうけん)の中でも、節(ふし)を残した織物で、そぼくな風合いが魅力。
結婚式のような正装には向きませんが、着やすく、丈夫、しかも暖かいので、普段着としては、最高なんです^^

なかでも、米沢の特徴であるのが、草木染め
天然の素材を用いているので、色合いがめちゃめちゃやさしいのです。
しかも、紅花(べにばな)が使われるので、暖色系が好みの、わたしのツボにめっちゃハマるのでした^^
(藍(あい)もありますから、寒色系もありますよ♪)

市内にある染織工房わくわく館では、紅花染めの体験や、織物体験ができます。

こちらは、ハンカチの紅花染め体験をしたときの写真。


▲ハンカチをたたみ、自由にピンチや木の板ではさんで、染める


▲はさまれた部分は色が染まらず、模様が出来る

地色が黄色のハンカチを使ったので、こんな色合いになりました。
白地に染めた方は、こんなきれいなピンク色に。

染織工房わくわく館は、上杉家廟所のすぐちかくにあります。

会津と同じようで全くちがう芋煮

会津では、春にお花見をするように、秋には当たり前のように芋煮をする文化があります。
米沢でも、会津と同じように、この芋煮文化があるのですが・・・
米沢でごちそうになった芋煮を食べてビックリ!!
これって芋煮じゃなくて○○○○じゃん・・・と思った経験が。

芋煮についてくわしくは、こちらの記事をどうぞ。

『芋煮会』それは花見に勝るとも劣らない東北の定番イベント!

まとめ

会津若松市のゆかりの地、米沢市についてまとめました!

会津とのゆかりは、

・米沢藩が、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主だったこと!
・会津の初代藩主・保科正之公が、米沢上杉家絶滅の危機を救ったこと
・初代米沢藩主・上杉景勝と家老直江兼続が米沢を含む会津を領地としていたこと
・米沢生まれの伊達政宗が200年続いた蘆名氏をほろぼしたこと
・蒲生・伊達の時代にも、米沢と会津は一つの領地として統治されていたこと

などなど、たくさんありました。

米沢と言えば、上杉の城下町
米沢上杉まつりや、上杉雪灯篭まつり上杉神社や、上杉家廟所などなど、上杉を冠したイベントや名所がたくさんあります。
そして、そぼくな風合いで着物好きに愛される米沢織物
歴史と文化が息づくまちです。

2018年は、会津まつりに初参戦してくださる米沢市。
時代設定が幕末なので、順当にいけば上杉斉憲(なりのり)が登場するのでしょうか??
上杉謙信・上杉景勝・直江兼続という有名人がいるので、その辺がどうなるのかも、気になりますね^^

米沢市のみなさんに、ご注目ください!

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