【会津ゆかりの地シリーズ⑫】二本松市~白虎隊はここにも?!二本松の戦いに散った二本松少年隊とは

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毎年9月に会津若松市で三日間に渡って開催される会津まつり。
このメインイベントである会津藩公行列には、ゆかりの地からのゲスト参加がとても多いんです!

会津まつり2022 日程と見どころ!2022年版!会津まつり日程と見どころを紹介♪

それぞれの都市が、
・どこにあるのか?
・会津とどんなゆかりがあるのか?
・一体どんなまちなのか??(名物や、歴史、伝統行事など)
これらが分かれば、会津まつりが数倍楽しくなること間違いなし!!

というわけで、調べてみましたよ~♪

こちらの記事で紹介するのは、福島県二本松市(にほんまつし)!

会津まつりへは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)150周年を迎える2018年に、初めて参加される見込みになっています。

そんな二本松市について、くわしく見ていきましょう!

二本松市はどこにあるの?

二本松市の場所は、こちら。

郡山市と福島市のちょうどまんなかです。

では、二本松市から会津若松までのアクセスを見てみましょう。

こちらです!

で、1時間~1時間半の距離。

二本松IC~東北道~郡山JCT~磐越道~会津若松ICというルートですね。
あるいは、猪苗代まで国道115号をつかうルートもあります。

二本松市と会津のゆかりは?

会津ゆかりの地ネットワークには、福島県内のゆかりの地についての記載はありません。

しかしながら、二本松と会津若松の間には、たくさんのゆかりがありました!

奥羽越列藩同盟に加盟

注目すべきいちばんのゆかりは、二本松藩が、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加盟していたこと。

奥羽越列藩同盟は、戊辰戦争で朝敵(ちょうてき)とされた会津藩・庄内(しょうない)藩を守るために、東北・新潟の各藩がむすんだ同盟です。
仙台藩・米沢藩が盟主(めいしゅ=リーダー)だったとされています。
仙台市・米沢市とのゆかりについてはこちら⇒【会津ゆかりの地シリーズ】仙台市米沢市

当時の二本松藩主は、丹羽 長国(にわ ながくに)。


画像引用:ウィキペディア

白河口の戦いでは、二本松藩も会津の応援にかけつけました。

白河口の戦いは、約100日間にわたってつづき、700名以上の犠牲者を出した同盟軍(旧幕府軍)が破れました。

二本松藩士も犠牲になり、白河市に慰霊碑がたっています。(地図の12番)


画像引用:白河市観光物産協会ホームページ

そのあとに、二本松で、会津戦争のひとつである、二本松城(霞ヶ城(かすみがじょう))をかけた戦い(二本松の戦い)が繰り広げられました。


▲二本松城 画像引用:ウィキペディア

二本松の戦いでは、ほかに類をみない徹底抗戦が行われ、たくさんの死者が出ました。
記録によって異なりますが、400名~600名が亡くなったとされています。

二本松少年隊

二本松の戦いで特筆すべきは、のちに二本松少年隊とよばれた少年兵です。

戊辰戦争の少年兵といえば、会津の白虎隊(びゃっこたい)が有名ですよね。
市中二番隊(しちゅうにばんたい)の少年たち20名(諸説あり、14名説も)が、飯盛山から鶴ヶ城が火の海につつまれているのをみて、集団自刃をはかりました。
これが白虎隊の悲劇として、後世に語り継がれています。

白虎隊市中二番隊は42名が所属していました。
白虎隊全体としては、主に15歳~17歳の少年たち約340名で構成されていたそうです。
このうち、自刃した20?名を含む、50名が命を落としたとされています。
※参考:白虎隊記念館ホームページ

さて一方、二本松の少年兵はと言いますと、12歳から17歳の少年兵部隊62名が戦いました。
白虎隊よりも若い、いまでいえば、小学校を卒業したかどうかという子供たちが含まれていたことになります。
このうち、14名が犠牲となったそうです。


▲二本松少年隊顕彰碑(けんしょうひ) 画像引用:ウィキペディア

二本松の少年兵は、当時は幼年隊(ようねんたい)といわれていたらしく、戊辰戦争50周年の式典後二本松少年隊として語られるようになったそうです。

そのためか、白虎隊の悲劇にくらべて、二本松の少年兵については、あまり世の中に知られていないですよね。
白虎隊士とおなじように、二本松の少年たちも、自ら志願して、それも、なんどもなんども頼み込んで、やっと兵に加わったそうです。

こどもはいつの世の中にも、役に立ちたい、という純粋な気持ちをもっています。
しかし、生まれた時代によって、それが即、自らのいのちをかけて戦うことにつながってしまう。

こどもたちの純粋なこころが、大人たちの都合で踏みにじられてしまうのは、あってはならない、とおもいます。

と同時に、二本松の戦いで幼い少年兵たちが、ゆうきを持って戦った、という事実を、もっとひろく、たくさんの方に知っていただきたいです!!

会津領の一部としての二本松

二本松は、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の時代と、その時代をはさむ2度の蒲生(がもう)時代において、会津の領地の一部でした。


▲上杉景勝 画像引用:ウィキペディア

その後も会津領主・加藤嘉明(かとうよしあき)の娘婿が領主になり、加藤家として会津と同じようにおさめられていました。


▲加藤嘉明 画像引用:ウィキペディア

このように、二本松と会津には、つよい結びつきがあったのですね。
二本松と会津をむすぶ街道は、二本松街道(二本松側からは会津街道)として、整備されていました。

二本松市と言えば?

二本松の菊人形

二本松市のキャッチコピーは、
花の都 にほんまつ

それをもっとも象徴するのが、二本松の菊人形ではないでしょうか?
菊人形は、人形の衣装に菊をあしらったもの。
二本松の菊人形は非常に有名で、人気があります。


▲二本松の菊人形 画像引用:二本松市のホームページ

二本松市のホームページによれば

 
平成30年(2018年)第64回「二本松の菊人形」のご案内
二本松には、藩政時代から菊の愛好者が多く、昭和の初期から町に菊人形が飾られていました。
昭和30年から「二本松の菊人形」として、霞ヶ城公園で開催されるようになり、現在の姿となっています。

戊辰の役から150年にあたる今年の「二本松の菊人形」は、「戊辰150年~信義×二本松少年隊~」をテーマに、幕府への義、隣藩会津への義を貫いた二本松藩と、ふるさとを守るために戦った二本松少年隊のエピソードなどを菊人形で表現します。

期間
平成30年10月10日(水曜日)~11月25日(日曜日)
午前9時~午後4時

場所
福島県立霞ヶ城公園(二本松市郭内3丁目地内)
※国指定史跡 二本松城跡

 

ということで、いつもと一味ちがった、戊辰150周年にふさわしい菊人形が見られそうです!

会場の霞ヶ城公園は、二本松跡です。
場所は、こちら。二本松市内中心部にあります。

ここ霞ヶ城公園では、さくらの季節には、こんな見事なけしきを楽しむことができます!!

花の都というだけあって、ほんとうに素晴らしいですね。

名前が似ている会津の鶴ヶ城も、さくらの名所として知られていますが、甲乙つけがたい美しさです!

奥州街道の要衝

二本松は、江戸の五街道のひとつ、奥州街道(おうしゅうかいどう)の要衝(ようしょう)の役目を果たしていました。

要衝というのは、

 
大辞林 第三版の解説
ようしょう【要衝】
商業・交通・軍事などの点で、重要な場所。要地。

 
引用:コトバンク

ただ、一般的に、奥州街道と言えば、宇都宮~白河です。


▲五街道ルートマップ 画像引用:もう一つのプロジェクトホームページ

その北にある二本松がなぜ?と、疑問を持たれるかも知れませんね。

ウィキペディアによれば

 
白河以北
江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、江戸中期には蝦夷地開発のため、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した。1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道・八戸自動車道が通っている。

 

とのこと。江戸中期以降は、白河から北も奥州街道とよばれたのですね。

そんなわけで、二本松市には、もちろん東北新幹線も通っています。
ただ、新幹線の駅はありません。
(二本松は、郡山駅と福島駅のあいだです)

智恵子抄で有名な高村智恵子

二本松は、智恵子抄(ちえこしょう)で有名な高村智恵子の出生地


▲高村智恵子 画像引用:ウィキペディア

高村智恵子は、昭和初期にかつやくした洋画家・紙絵作家。
智恵子抄は、夫であり、彫刻家・詩人の高村光太郎が、智恵子の没後に出版した詩集です。

巨大壁画で知られる神戸文化ホール。
このモザイクタイル壁画の原画が、智恵子の紙絵作品である「あじさい」です。


画像引用:ウィキペディア

二本松市内には、智恵子の生家、智恵子記念館などがあります。


▲復元された智恵子の生家 画像引用:ウィキペディアウィキペディア

智恵子のお父さんは、清酒『花霞』で有名な酒造家・長沼家に養子に入りました。
現代においても、智恵子の『花霞』という日本酒が販売されています。

智恵子記念館は、生家の裏庭に併設されています。

智恵子の生家・智恵子記念館の場所はこちら。
霞ヶ城公園から、車で10分ほどの場所にあります。

まとめ

会津若松市のゆかりの地、二本松市についてまとめました!

会津とのゆかりは、

・二本松藩が、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加したこと
・戊辰戦争で二本松少年隊をふくむ二本松藩士が、西軍と徹底抗戦したこと(二本松の戦い
・二度の蒲生公時代、上杉景勝公時代、そして加藤公時代などに、会津と同一領土としておさめられていたこと

などがありました。

二本松は奥州街道の要衝のやくわりを果たしていました。
花の都、にほんまつにふさわしく、二本松の菊人形
そして、春には霞ヶ城公園がみごとなさくらの名所となります。

白虎隊と違って、あまりしられていない二本松の少年兵の存在。
会津まつりでは、ひょっとしたらこの二本松少年隊のすがたが見られるのかも知れません!!

2018年会津藩公行列では、二本松市のみなさまに、ぜひご注目ください♪

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