【会津ゆかりの地シリーズ⑩】仙台市~奥羽越列藩同盟の盟主!

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毎年9月に会津若松市で三日間に渡って開催される会津まつり。
このメインイベントである会津藩公行列には、ゆかりの地からのゲスト参加がとても多いんです!

会津まつり2022 日程と見どころ!2022年版!会津まつり日程と見どころを紹介♪

それぞれの都市が、
・どこにあるのか?
・会津とどんなゆかりがあるのか?
・一体どんなまちなのか??(名物や、歴史、伝統行事など)
これらが分かれば、会津まつりが数倍楽しくなること間違いなし!!

というわけで、調べてみましたよ~♪

こちらの記事で紹介するのは、宮城県仙台市(せんだいし)!

自然豊かなことから、「杜の都(もりのみやこ)」と呼ばれる、東北唯一の政令指定都市。
東北六県の中では、ダントツで都会!ですよね。

会津まつりへは、戊辰150周年を迎える2018年に、初めて参加される見込みになっています。

そんな仙台市について、くわしく見ていきましょう!

仙台市はどこにあるの?

仙台市の場所は、こちら。

奥羽山脈をはさんで、山形県山形市のちょうどお隣にあります。

では、仙台市から会津若松までのアクセスを見てみましょう。

こちらです!

で、約2時間半の距離。

会津若松市~仙台市の移動は、基本的には、会津若松IC~磐越道~郡山JCT~東北道~仙台宮城ICと、高速道路を利用するのが一般的。

人によっては、福島市までは下道(一般道)を使う方もいます。
つまり、会津若松~国道115号線~福島西IC~東北道~仙台宮城ICというルート。

会津若松市から福島市までは、高速道路を使う場合、一旦郡山まで出るので、すこし遠回りなのです。
天気が良ければ、下道でも割とスイスイ進めて、高速を使ったのと時間的にあんまり変わりません。

ただ、土湯峠(つちゆとおげ)を越えて行くため、冬は、凍結や積雪のリスクが高まります。
そんなわけで、スタッドレスタイヤ装着と、少しの勇気が必要なルートです。

喜多方近辺からの移動では、国道121号線を使って、米沢(よねざわ)市まわりで行くよ、という方も多いです。

冬や夕方以降(暗くなってから)の移動であれば、磐越道~東北道ルートがオススメ。
逆に、行楽シーズンの日中であれば、福島市までは下道(国道115号線)ルートがオススメです。
それによって、東北道下りの定番渋滞スポット、福島トンネルを回避できる!というメリットがあります^^

福島トンネルの場所は、こちら。

福島松川PA~福島西ICの間にあります。

ウィキペディアにも

 
福島松川PAに隣接していること、上り線はこのトンネルまでの約3kmにわたって上り勾配となっていることにより、ゴールデンウィークやお盆などの最混雑期にはこのトンネルを先頭に上下線で5km以上の渋滞になることが多い。

 
とあるほど、混雑する区間です。
お気を付けくださいね!

仙台市と会津のゆかりは?

会津ゆかりの地ネットワークによると、

 
【ゆかりの人物】飯沼貞吉・遠藤敬止
【主なゆかり】土井晩翠「荒城の月」

 

とあります。

また、絶対に忘れてはいけないのが、幕末の仙台藩と会津藩のつながり。

戊辰戦争で朝敵(ちょうてき)とされた会津藩・庄内(しょうない)藩を守るために、東北・新潟の各藩がむすんだ同盟である、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
米沢藩と共に、この盟主となったのが、仙台藩でした。

仙台藩は、伊達氏の領地だったので、伊達藩(だてはん)とも呼ばれます。

奥羽越列藩同盟の盟主

当時の藩主は、伊達慶邦(だて よしくに)。伊達氏第29代当主です。


画像引用:ウィキペディア

このころ、仙台藩は、会津藩・庄内藩とともに、蝦夷地(えぞち=北海道)の警護をまかされていました。
北の大地をともに守ったきずなが、奥羽越列藩同盟のきっかけになったのでしょうか??

この同盟の成立にとくに尽力したのが、大槻磐渓(おおつきばんけい)。


▲JR一ノ関駅前の大槻三賢人像 画像引用:ウィキペディア

大槻磐渓は、当時、仙台藩の藩校である、養賢堂(ようけんどう・別名明倫館(めいりんかん))の校長をつとめていました。


▲泰心院の山門として移築された養賢堂正門 画像引用:ウィキペディア

奥羽越列藩同盟のもうひとりの立役者が、おなじく仙台藩の玉蟲 左太夫(たまむし さだゆう)。


画像引用:ウィキペディア

ウィキペディアには

 
仙台藩主の伊達慶邦(だて よしくに)の命を受け、薩長を中心とする新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」を成立させるために東北諸藩を回り、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に同盟を成立させた立役者の一人として知られる。

 

とあります。

理由はどうあれ、新政府にたてつく行為ですから、理解を得るのはたいへんだったはず。
それを、くるまも電話もメールもない時代に、諸藩をまわって説得した、というのは、想像しただけでも気が遠くなるような、たいへんな仕事だったでしょうね。。。

白虎隊悲劇の自刃の生きのこり飯沼貞吉

ゆかりの人物のひとり、飯沼貞吉(いいぬまさだきち)。

かれは、戊辰戦争に、白虎隊市中二番隊(びゃっこたいしちゅうにばんたい)として参戦しました。
市中二番隊は、白虎隊の悲劇でひろく知られています。
松平容保(まつだいらかたもり)公の指示で、滝沢本陣から戸ノ口原に出陣。
15-16才の子どもたちが、最新兵器をもった大人たちにかなうはずもなく、敗走をよぎなくされました。

命からがら戻った飯盛山から、鶴ヶ城が火の海につつまれるのを見た彼ら。
お城に戻って戦うべきか、敵に囲まれたお城に入れるのか、激論を交わした末に、集団自刃(じじん)の道を選んだと言われています。
このときにただ一人生きのこり、この事実を後世につたえるきっかけになったのが、飯沼貞吉さんでした。

会津ゆかりの地ネットワークによると

 
明治維新後は貞夫と改名し逓信省で電気技師として各地で勤務。明治38年には札幌に郵便局工務課長として赴任。明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力した。
仙台逓信局工務部長の地位で退職。仙台で病没した。

 
とのこと。

飯盛貞吉さんのお墓も、晩年まで住んでいた仙台にあるんです。

場所はこちら。仙台市北山・輪王寺です。

他の白虎隊士と同じ地にも埋葬したいという声に応えて、生前本人が用意していた毛髪と歯がおさめられたお墓が、会津若松市内の飯盛山にもあります。

飯沼貞吉さんの写真を見ることもできる、白虎隊記念館については、こちらの記事をどうぞ。

無料駐車場あり!白虎隊記念館は会津人の想いが詰まった必見スポットだった!

戊辰戦争を生き抜き政財界で活躍した遠藤敬止

遠藤敬止(えんどうけいし)
正直、はじめて耳にするお名前です!

会津ゆかりの地ネットワークによれば

 
嘉永4年~明治37年(1851~1904)
会津藩士、実業家。鳥羽伏見の戦いの際、会津軍に入り籠城戦にも参加。敗戦後の幽囚生活の後、慶応義塾で経済学を学ぶ。実業界に身を投じ仙台の七十七銀行頭取、仙台商工会議所初代会頭となる。明治23年新政府によって鶴ヶ城が競売に付された時、私財をなげうって落札、松平家へと献上した。城跡は後に松平家から若松市に売却され現在に至っている。
昭和46年敬止の徳をたたえ鶴ヶ城北出丸に顕彰碑が建立された。

 

とあります。

遠藤敬止さんは、戊辰戦争で篭城戦(ろうじょうせん)を生き抜き、七十七(しちじゅうしち)銀行の頭取(二代目)をつとめた方だったのですね!

戊辰戦争のあとは、会津藩出身者への差別があった、と一般的に言われています。
実業界でこれだけ成功するのは、なみたいていのことではなかったと思います。
遠藤敬止さんも学んだ、会津藩校・日新館(にっしんかん)のレベルの高さがうかがわれます。

仙台という場所は、東北でもっとも大きな都市であったことだけでなく、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主として、会津と運命をともにしてくれた、特別な土地。
会津藩出身者にとって、ほかより生きやすい場所だったのかもしれません。

売りに出された鶴ヶ城(つるがじょう)を、私財を投じて松平家へ買い戻した人がいた、というのも初めて知りました。
そんなドラマがあったなんて。。。
ウィキペディアによれば、明治23年に、当時のお金で2,500円で払い下げをうけたそうです。
明治30年ころの1円は、いまで言うで2万円ほど※だそうなので、ざっくり計算して5,000万円!
(※参考:man@bow運営:野村ホールディングス・日本経済新聞社)

お金持ちだったとしても、これだけの金額を寄付する、というのはなかなかできませんよね。
もと会津藩士は、じぶん一人ではないわけですし。。。
それでも、自分が買い戻さなければならない!そう思ったに違いありません。

会津藩士たちが、死闘をくりひろげて守った鶴ヶ城が、売りに出されていること自体、会津人にとっては、耐えられない状況だったのではないでしょうか。

遠藤敬止さんは、きっと当時のヒーローだったのでしょうね!!

いまでも、会津若松市内では、遠藤敬止翁(おう)顕彰会(けんしょうかい)が、毎年6月に、鶴ヶ城にある遠藤敬止翁碑前祭(ひぜんさい)を行っているそう。


画像引用:七代目猪之吉酒録

顕彰会の会長をつとめる末廣酒造(すえひろしゅぞう)の七代目・新城猪之吉(しんじょういのきち)社長のブログ七代目猪之吉酒録に紹介されていました。

仙台には、宮城県在住の会津出身者などを中心とした、みやぎ会津会という会があります。

みやぎ会津会ホームページによると、遠藤敬止さんは、経済界のみならず、衆議院議員7期、貴族院議員1期もつとめ、政財界でひろくご活躍されたそうです。

遠藤敬止さんのお墓は、仙台市内にあります。

場所はこちら。浄土宗充國寺の本堂裏手だそうです。

遠藤敬止さんについては、会津若松市のあいづ人物伝にも紹介されています。

土井晩翠「荒城の月」

さいごのゆかりは、土井晩翠(どいばんすい)「荒城(こうじょう)の月」

土井晩翠の「荒城の月」という歌は、みなさん一度は耳にしたことがあるとおもいます。
わたしがこどものころは、音楽の教科書にのっていて、合唱した記憶があります。

滝廉太郎(たきれんたろう)の、と記憶している方もいらっしゃるかもしれません。
作詞が土井晩翠、作曲が滝廉太郎です。

こんな歌です。

 
動画の中には、会津若松の鶴ヶ城と、仙台の伊達政宗(だてまさむね)像がでてきます。
タイトルにもある『荒城』は、会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城(あおばじょう=仙台城)をイメージしたものと言われています。

荒城と歌われるのは、ちょっとかなしい気もします。
でも、当時のありのままの姿を歌ったことに、価値がありますよね。
日本の名曲中の名曲のモデルになっているのですから、ほこらしいことです。

会津若松市内にある白虎隊記念館には、土井晩翠先生特集と題し、たくさんの資料が展示してありました。
白虎隊記念館については、こちら⇒【必見】会津人の想いが詰まった白虎隊記念館

仙台市と言えば?

伊達政宗

仙台の歴史上の人物で、伊達政宗以外の人物を思い浮かべる方は、まずいらっしゃらないでしょう!

歴史おんちのわたしでも、伊達政宗のことは、なんとなく聞いたことがあります!!


画像引用:ウィキペディア

ウィキペディアによれば

 
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。

 
とのこと。

独眼竜(どくがんりゅう)正宗!
よく聞くフレーズです!!

トレードマークとも言える眼帯は、てっきり戦のキズかと思っていました。
天然痘(てんねんとう)によるものだったのですね。
しかも、じつはホンモノの伊達政宗は、眼帯なんてしていなかったという衝撃の事実(‘◇’)ゞ

そして、伊達政宗と言ったらやはり、ナイキマークのかぶと!!


画像引用:ウィキペディア

伊達政宗をイメージしたゆるキャラ、(c)独眼竜ねこまさむねも、もちろん、このかぶとをかぶっています。


画像引用:独眼竜ねこまさむね公式ホームページ

公式ホームページのプロフィールには、

 
伊達政宗公の三日月兜がトレードマークのご当地戦国武将キャラクターです。

 

の一文が。

正式には、ナイキではなく、三日月と呼ぶようです!!

実は、わが家の五月人形は、伊達政宗です。
上の子(4歳)の初節句に、ばあちゃんが大奮発して買ってくれた、会津塗りのもの。

わが家のナイキマーク、じゃなかった、三日月は、ゴールドですが、おそらくこのシリーズ。

上杉謙信と迷って、ばあちゃんがインスピレーション(おそらく、決め手は色)で決めました。

伊達政宗×会津塗りといえば、1589年から1590年の超短期間ではありますが、伊達政宗公は黒川城(くろかわじょう=のちの鶴ヶ城)を手にしたことがありました。
期間は短いですが、これにより、会津で400年も続いた、蘆名(あしな)時代が終わったのでした。
このとき猪苗代で行われた戦いは、摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)または、摺上原合戦(すりあげはらがっせん)と呼ばれています。

戦いがあったのは、このあたり。

猪苗代でゆうめいな観光スポット、野口英世記念館から車で10分ほどのところです。

ここには、三忠碑という石碑があります。


▲三忠碑 画像引用:猪苗代観光協会ホームページ

猪苗代観光協会ホームページによれば

 
天正17(1589)年旧暦6月5日、伊達政宗は宿願の芦名の所領会津を攻略すべく磨上原に軍を進めました。
この地の戦いに芦名義広の家臣金上盛備、佐瀬種常、その子平八郎常雄の三士は主君の危急を救いましたが戦死しました。
その忠誠のさまを後世に伝えるため、九代会津藩主松平容敬公が嘉永3(1850)年に建立したものです。
碑文は会津の儒者高津泰の撰により、全文437文字を唐の書家顔真卿の書体を集めて刻んだもので、まれな句碑文として貴重なものです。

 

とあります。

三忠碑のそばに、この由来を説明する立て札があります。


▲三忠碑の由来 画像引用:猪苗代観光協会ホームページ

260年もまえの、それも自分の直接の祖先でもない、芦名(あしな・蘆名/葦名とも)の家臣をたたえる石碑をたてるなんて!
松平容敬(かたたか)公は、きっとそうとう文化人だったのでしょうね。
そして、江戸時代って、ある意味でとても平和だったのだろうな、と思わせるエピソードです。

さて、伊達政宗のはなしにもどします。
伊達政宗が初代仙台藩主となったのは、摺上原の戦いから12年後の、1601年のことでした。

伊達政宗も、仙台市と会津若松市のゆかりの人物に、ぜひ加えておきたい人物ですね!!

牛タン

仙台へは、車で2時間半ほどかかりますが、会津から買い物やあそびに出かける、ということもめずらしくありません。

仙台に行って食べたいものと言えば。。。牛タン!

牛タンというのは、牛のタン(舌・した)で、最近では焼肉の定番にもなっています。
じつは、牛タンを食べるのが一般的になったのは、戦後になってから。
そして、仙台が発祥なんです。

仙台で言うところの牛タンは、

 
店員が塩味やタレをつけた牛タンを炭火等で焼いて出し、そのまま食べる。

 

というもの。引用:ウィキペディア

牛タン焼きを発案した佐野啓四郎(さのけいしろう・山形県出身)は、同時に、しっぽの部分を使った「テールスープ」を発案。

仙台では、牛タン焼き・テールスープ・麦ごはん・お漬物・みそ南蛮をセットにした、牛タン定食が有名です。


画像引用:元祖味太助ホームページ

仙台には、牛タン専門店がたくさんあります。
いちばんの老舗は、牛タン発案者佐野啓四郎がはじめた、太助(たすけ)です。

仙台七夕まつり

仙台と聞いて、七夕(たなばた)まつりを思い浮かべる方も多いのでは。


画像引用:ウィキペディア

七夕といえば、7月7日に行うのが一般的。
一方で、一か月遅れの8月6日~8月8日で行われるのが、仙台七夕の特徴です。

一か月遅れにしているのは、もともと七夕が行われていたのが旧暦の7月7日であったため。
厳密にいうと、旧暦の7月7日をいまの暦になおすと
2018年の場合:8月17日
2017年の場合:8月28日
2016年の場合:8月9日
と、かなりのバラツキが出ます。(参考:計算サイト

簡易的に、行事を一か月遅れ(月遅れ)で開催する、というのは日本の年中行事によくあることなんだとか。

七夕は、各家庭でこじんまりとお祝いするイメージがありますよね。
仙台七夕は、街じゅうが七夕飾りで飾られ、とてもはなやかです。

定禅寺ジャズフェス

仙台市内では、毎年、定禅寺ストリートジャズフェスティバルという音楽イベントが開催されています。(公式ホームページ

 
定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台(じょうぜんじストリートジャズフェスティバル イン せんだい)とは、宮城県仙台市の定禅寺通りを中心に、仙台市都心部各所の街角屋外をステージに催される無料の市民音楽祭である。例年、9月第2土・日曜日に開催され、前夜祭も含めた3日間、市内は音楽一色となる。

 

とにかくおどろくのが、その規模。
街じゅうのいたるところが、音楽ステージになってしまうのです。

数字やアルファベットが入っている場所、すべてステージ!!

ボランティア主体で運営されていて、プロ・アマ問わず、演奏に参加できます。
ただし、倍率が高く、書類選考、音源審査、とオーディションがあります。
定禅寺ジャズフェスで演奏する、ということは、アマチュアミュージシャンにとってステータスになっているのです。

人口が集中しているだけでなく、仙台の、市民主導のイベントのエネルギーは、ものすごい!と感じます。

まとめ

会津若松市のゆかりの地、仙台市についてまとめました!

会津とのゆかりは、

・仙台藩が、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主だったこと!
・仙台藩・会津藩が、庄内藩とともに蝦夷地を守っていたこと
・会津藩士だった飯沼貞吉さん・遠藤敬止さんが移住し、活躍した土地であること
・土井晩翠がかいた「荒城の月」が、鶴ヶ城と青葉城をモデルにしていること
・仙台藩初代藩主、伊達政宗が200年続いた蘆名氏をほろぼしたこと

などなど、たくさんありました。

仙台と言えば、伊達政宗
名物は、牛タン
そして、仙台七夕まつりや、定禅寺ジャズフェスなどで、非常に活気あふれるまちです。

2018年は、会津まつりに初参戦してくださる仙台市。
時代設定が幕末なので、伊達政宗が馬に乗って登場!するはずはありませんが、熱いエネルギーで、まつりを盛り上げてくれることまちがいなしですね!!

仙台市のみなさんに、ご注目ください🎵

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